第3話 暗闇にひそむもの
わたしは飼っているイヌ(ちなみに犬種はチワワ)の、『チョコ』のリードを掴みながら、田んぼに囲まれた道を歩いていた。
ここは昨日わたしが見つけた、最高の散歩コースだった。
人通りが少なく、静かでのどかな空気。今日は夕方の散歩だけど、早朝の散歩はもっと気持ちがいい。
なのに……深呼吸を何度もくり返したって、わたしの心はそわそわと落ち着かなかった。
携帯電話をポケットから取り出すと、画面に表示された時刻を見る。
ちょうど四時半。
『夜、学校に来て』
わたしはふるふると首を振る。
なにを気にしてるのよ、あんな言葉。だれが書いたのか知らないけど、嫌ないたずらだ……。
ただでさえ頭の中いっぱいいっぱいで、追いついてないのに。
わたしはいら立ちつつ、携帯電話をポケットに突っ込んだ。
気分を紛らわそうと必死になればなるほど、今日の出来事を思い出してしまう。
――今年の四月、始業式が始まってすぐに、二年五組の女子生徒が死んだんだよ。
桃花ちゃんはそう言った。
すぐに結びついたのは、二年五組の長い髪の女の人。
彼女の制服は、紺のセーラー服だった。
衣替えは六月だから、あの人が四月に死んでしまったのなら、冬用の紺のセーラー服でもおかしくない……っていやいや、まだあの人がゆうれいだなんて決まってないし、そもそもわたしに霊感なんてないし……。
わたしは、遠くにのっそりとたたずんでいる学校を見た。
……あの女の人がもし、ゆうれいなのだとしたら、まだ、学校にいるのかな……。
ひとりぼっちで、だれにも見てもらえずに。
そしてまた、わたしはふるふると首を振る。
……まさかね。考えるのはやめよう、気にしてたらいけない。
そう言い聞かせても、胸のわだかまりは溶けない。
わたしはゆうれいなんて、少しも信じてない。
二年五組のあの女の人は生きてる、机の文字はただの嫌がらせ、なにもないに決まってる……。
なのに、学校から目が離せない。
「わんっ!」
すると、チョコが突然吠え、猛スピードで走り出した。
「あっ」
わたしはとっさに、そのリードを引っ張ることができなかった。
落ちたリードは地面を擦り、チョコは走り去る。
「チョコ!」
追いかけるけど、チョコは田んぼを抜け、細い道を曲がり……わたしがT字路に出たころには、チョコはどこにも見当たらなかった。
うそでしょ、チョコはどっちに行ったのよ!
左は学校のある方向、右は家のある方向、後ろは今通ってきた道だから……うぅん、とりあえず右!家に帰ってるかもしれない。
とにかく早く捕まえなきゃ‼︎
*
探し始めて、もうずいぶんとたったらしく、空はだんだん暗くなっていく。
携帯電話を開くと、六時前だ。
どうしよう……。
わたしは一人、住宅街の真ん中で、頭を抱えていた。
家の庭を覗いたけど、そこにチョコは帰っていなかった。
これ以上遅くなると、お父さんとお母さんが心配する。
二人に電話をする?事情を話す?そしたら怒られるんだろうなぁ……あぁどうしよう!
先延ばしにしたらもっと怒られるだけなのに、もう少し探したらチョコは見つかるんじゃないかって、小さな希望にすがってしまうせいで、家へ連絡できずにいる!
「あぁぁぁ」
低いうなり声をあげて、頭をかきむしった。
うぅ、ちゃんと事情を話そうかな、もうわたし一人じゃ見つけられる気がしない……。
ポケットから携帯電話を取り出した、そのとき。
――わんっ
驚いて顔を上げる。
今、イヌの鳴き声がかすかに聞こえた気がした。それも、少し甲高い、チョコみたいな鳴き声……。
すると、また……。
わんっ
たしかに聞こえた、後ろから!
振り返ると、学校が近くに見えた。
そういえば、学校近辺はまだ探してない。
イヌ違いかもしれないけど……あそこを探してもいなかったら連絡しようかな。うん、そうしよう!
そうと決まれば、わたしは走り出した。
どうかチョコでありますように!
しばらく、きょろきょろとあたりを見回しながら走っていた。
大通りを逸れ、また小道に入ると……。
わんっ!
イヌの鳴き声だ!
声のした方を見ると、そこには学校の校門。
チョコ、まさか学校の中にいるの⁉︎
鳴き声は止んで、もう聞こえない。
学校は静まり返り、人のいる気配がしなかった。言いようのない不気味さに、ぶるりと身震いをした。
門扉はちょうど、人一人分くらい開いている。まるで学校に誘われているようだ。
わたしはごくりと唾を飲み込んだ。
いやいや、どうせ、まだ運動部とか部活してるよね?前の学校じゃ、野球部とか平気で七時くらいまで部活してたし。
なにも怖くないと自分に言い聞かせ、わたしはそろりと、中へ入っていった。
チョコは校舎の中へは入れないだろうから、外周を回る。
茂みをかき分けても、木の陰を覗いても、見当たらない。
どこにいるの?せめて、もう一度鳴き声をあげてよ。
見つからないことに焦り始めていたとき、運動場が見えてきた。
――あれ、運動部がいると思ったけど、いない。運動場は静かで、街灯も灯っていない。でも。
運動場の真ん中に、なにかいる。なにか動いてる。
あたりはもう薄暗く、それは周りと同化しかけていたけど、目を凝らしてやっとそれの姿かたちを見た。
それは、二メートルくらいの高さのある、人のようだった。
ひょろりと長くて、細く、ひどく猫背で……。
おさげの黒い髪、真っ黒のワンピース、薄暗い肌の色。だけど、横を向いているそれの顔を見て、わたしは目を見張った。
その顔は、のっぺらぼう。
声を上げそうになったのを、口を押えてこらえた。
人じゃ、ない!
「音楽、音楽を……ピアノを、弾かせて……」
か細い女の子の声を、それは発した。
「弾かせてよ……あたし、だけ……もうできないなんて……憎い、憎いぃ……」
それはのろりと首を動かし、わたしの方を見る……。
すると、わたしの上着の袖が後ろへ引っ張られた。
えっ。
声を上げる間もなく、わたしは校舎の陰に引っ張り込まれた。
「もっと隠れて」
凛とささやく声にはっとして、振り返る。
その人は、二年五組で見た、長い髪の女の人だった。
「あ、あなた……」
「しっ!静かに」
彼女は口に人差し指を当てた。
わたしは声を小さくしてたずねる。
「せ、先輩……?な、なんなんですか?」
「あれはゆうれいよ。未練を残して死んだ人は、ゆうれいになる。でも、憎しみの強いまま死んだら、あんな姿になってしまうの」
気になったのはそれだけじゃなかったのだけど、先輩は早口に説明した。
「あの、聞きたいことが山ほどあるんですけど……」
「説明は後。あの子を先に成仏させなきゃ」
「成仏?」
「そう。背中に触れて、『もう大丈夫』って、言って。そうすれば、あの子は成仏できる。あなたがするの」
え、なんでわたしが⁉︎
思わず大声を出しそうになった。
「一人で成仏させるのは難しいわ。協力するのよ。わたしはおとりになる」
真剣なその目は、まっすぐにわたしを見つめる。
冗談を言っているようには見えなかった。
わたしはもう、人じゃないものを見てしまってる……全く信じてなかったけど、ゆうれいはいるのかもしれない。それは認める。でも、わたしの気持ちは揺らいでいて、決断できずにいた。
その理由は、いろんなことが急に押し寄せて来て、頭がプチパニックだからだ。
わたしがゆうれいの背中に触れるとか、もう意味がわからない。
「わ、わたしじゃないとダメなんですか……?」
「早く成仏させないと、あのゆうれいは人を呪ってしまうわ。ゆうれいが見えるのは、今ここであなただけ。お願い、成仏させるのを手伝って」
それでも先輩は、まっすぐな目をそらそうとしない。
成仏――。
その言葉は、わたしの胸にひどく突き刺さる。
あの怪物のような人も生きていた。わたしと同じように。でも、死んでしまった?
当り前なことが、当り前じゃなくなって、今は普通の人の形ですらなくなったっていうの?
「こんなこと急に言われて、簡単には信じられないと思うわ。でも、あなたにしかできないの」
先輩はすがるように言った。わたしの心を突き動かすには、十分な一言だった。
――困っている人がいるのなら、迷わず手を差し伸べなさい。人として、それは当たり前の行動だから。
くり返しわたしに言い聞かせていた、おじいちゃんの言葉。やりたいことがまだあったはずなのに、病気のせいで急に倒れて、回復することもないまま、そのまま死んでしまったおじいちゃん。
あの人も、同じだったかもしれない。
わたしが、そんな人を救うことができる……?
わたしはゆっくりと深呼吸をして、気持ちを落ち着かせると言った。
「……や、やってみます」
わたしは校舎をぐるっと裏から回って、先輩のいるところの反対側へ来た。
空はもうとっくに暗い闇だ。
携帯電話の懐中電灯機能を使って、光を先輩の方へ向ける。
そのゆうれいが明りに気づき、先輩を振り返ったと同時に、勢いよく先輩が運動場へ飛び出していく。
わたしは走っていく先輩の姿を照らし続ける。
ゆうれいは、そんな先輩を追って走り始めた。
それを確認して、携帯電話で先輩を照らしたまま、わたしも走る。
ちょうど、先輩とわたしがゆうれいを挟むような形になった。
ゆうれいの足は、全く速くない。
わたしとゆうれいとの距離はどんどんと縮んでいく。そのときになってやっと気づいた。
そのゆうれいの体中を、文字がびっしりと埋めている。
音楽、音符、ピアノ、弾きたい、弾かせてほしい、コンクール、などなど……。その黒い文字のせいで、肌が薄暗く見えるんだ。
この子がこぼしていた言葉――。
『ピアノを、弾かせて』
――やりたいことがあったはずなのに、それが突然できなくなる。
あぁ、わたしより体が大きくとも、まだ幼いのか、この子は。
わたしは唇をかみしめた。
せめて、成仏して。
幼いゆうれいに追いついたわたしは、その背中へ腕を必死に伸ばし……。
「もう大丈夫」
その子の背中に触れた。瞬間、あたりは真っ白に包まれた。
先輩はいなくて、わたしが背中に触れているその子は、もう大きな黒い怪物ではなくなっている。
おさげにした髪、ピンクのワンピースの女の子……その後ろ姿は、普通の少女だった。
手から伝わるその子の背中は暖かく、まるで生きているようで。
消えていく中、少女は振り返り、そして、おだやかな顔でほほ笑んでいた……。
「――ねぇ、ねぇ!大丈夫?」
先輩の声に、はっと我に返った。
目の前には、わたしの顔を心配そうに覗き込んでいる先輩の顔が。
「あ……先輩」
あたりは元の夜の学校に戻っていた。
今のがきっと、成仏した、ということなんだろうな。……だけど、
「あの子、ピアノを弾きたがってました。成仏させる前に、その願いを叶えてあげたかったです」
わたしの言葉に先輩は悲しそうに眉をひそめると、無理よ、と言った。
「あんな風に暴走したゆうれいは、とても危険なの。生者を憎んで、呪ってしまう。最悪の事態を避けるには、もうあのように成仏させるしかない」
やるせない、というように、先輩は深いため息をついた。
わたしはゆっくりと体を起こすと、あの子に触れた手のひらを、じっと見つめた。
温かかったあの温度は、まだ手のひらに残ってる。
生きていたころの断片を、垣間見た気がした――。
――わんっ
近くに響いた、その甲高いひと吠え。
え、今の……。
「チョコ?」
わたしは立ち上がり、後ろを振り返る。でも、姿は見えない。
「あのチワワ、あなたの?」
そう言って先輩は低木の奥に姿を消すと、チョコを抱えて戻ってきた。
「わたしに飛びついてきたのよ。だけど、それじゃあ、わたしがゆうれいに見つかってしまうから、大人しくしてもらおうと柱に繋げてたの。ごめんね」
先輩はチョコの頭を丁寧にひとなですると、わたしの胸に突き出した。
わたしはチョコを受け取り、
「捕まえていてくれて、ありがとうございます」
もう離すもんかと、強くチョコを抱きかかえたまま、頭を下げた。
チョコは先輩をじっと見つめ、わんっとひと吠えした。
まったく、のんきなイヌめ。
ため息をついて、チョコをじろりとにらむ。
先輩はというと、わたしの顔をじっと見つめ、
「あなた、気分は悪くなってない?」
唐突に、そんなことを言った。
「だ、大丈夫ですけど。なんでですか?」
「この学校ね、気分を害した生徒や先生が何人も続出したの。だから、部活は原則五時までなのよ。先生も、だいたいは五時半にはみんな帰るの」
「え、なんでそんなことが起こったんですか?」
「理由は、さっきのゆうれいがこの場所で、生徒や先生を呪っていたから」
あぁ、なるほど……。
先輩はフゥッと息を吐くと、空を仰ぎ、数秒固まった。
「……家まで送るわ」
「え?」
「もう真っ暗よ」
先輩はわたしの答えも待たずに、校門へ向かう。
わたしは慌てて、先輩のとなりに並んで歩き始めた。
校門を抜け、二人、黙って帰り道を進む。
道の知らない先輩は、わたしの少し後ろをついてきていた。
沈黙はつらくて、わたしは先輩をちらりと見たけど、そのきれいな顔は今や暗闇が包み込んで、よく見えない。
何度か口を開こうとした。でも、すぐにやめてチョコをなでる。
ダメだ、なんにも話すことない……。
口下手なのを悔やんでいたら、
「もうわかってるわよね」
と、先輩が先に口を開いた。
「わたしもね、ゆうれい。……事故で死んだ」
風になびく長い髪を手で押さえながら、先輩はかみしめるようにつぶやく。
「……なんとなく、わかってました」
「はは、だよね。あなた、霊感あるよ」
「ありませんよ!」
そんなのあってたまるかと、わたしはそっぽを向く。
「こんなもの見るなんて、はじめてなんですよ。霊感があるなら、もっとゆうれいを見てないとおかしいんじゃないですか?」
「そうね、おかしい……家族の中で霊感のある人はいる?」
「わかりません、そんな話、したことないですから。あ、でも……」
「でも?」
「……関係はありませんけど……唯一、祖父はゆうれいとか宇宙人とか、そういう話が好きで、よく聞かせてくれました。祖父はゆうれいを信じていたと思います」
話しながら、思い出すおじいちゃんのこと。
早くに亡くなったおばあちゃんの、橙色のニット帽がお気に入りで、ずっとかぶっていた。
笑顔がやわらかくて、よく縁側で日向ぼっこをしていたわたしに、楽しそうに話を聞かせてくれた……。
そんなおじいちゃんのことを考えていると、あの朝の出来事が、ふと頭に浮かんだ。
「そういえば……こっちに引っ越して間もなくして、ずっとつけていたミサンガが切れました。極力外さないようにって、祖父が編んでくれたミサンガなんです。切れるたび、編み直してくれていて……」
「なるほど……」
先輩は考え込むようにあごに手を当てると、そうね、と言った。
「そのミサンガ、明日学校に持ってきてくれる?」
「い、いいですけど……」
「じゃあ明日、昼休み、別棟の屋上ね」
先輩はわたしの意見も待たずに、よし、決定!と言った。
この人、けっこう強引な人なんだな……。
家が見えてきて、わたしはここまでで大丈夫です、と振り返って先輩を止めた。
「わざわざ送ってくれて、ありがとうございました。それじゃあ、わたしはこれで」
そそくさと歩き始めたわたしを、先輩は待ってと言って、引き留めた。
「あなた、名前は?」
いきなりの質問に、わたしはしどろもどろに答える。
「す、涼風晴海です」
「わたし
そういって、朔夜先輩は手を差し出した。
橙色の街灯に照らされた先輩は、にこやかに笑っていた。
はじめて見る、この人の笑顔。
真顔でいたら、厳しく冷たい印象のある人だけど、この人は、こんなにも温かく笑えるんだ……。
そのギャップが意外だった。
わたしは差し出された朔夜先輩の手を握る。
その手はひどく冷たく、氷のようだった。
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