第4章:ドイツのバロック - バッハとヘンデル
バロック音楽の頂点を極めた二人の巨匠、ヨハン・セバスティアン・バッハとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル。同じ1685年に生まれたこの二人のドイツ人作曲家は、バロック音楽に不滅の足跡を残しました。面白いことに、二人は生涯一度も会うことはありませんでしたが、それぞれ独自の道を歩み、音楽史上最も重要な作曲家となりました。
### ヨハン・セバスティアン・バッハ - 音楽の父
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)は、しばしば「音楽の父」と呼ばれ、西洋音楽史上最も偉大な作曲家の一人です。彼の音楽は複雑で深遠であり、技術的にも完璧と言われています。
#### バッハの生い立ち - 音楽一家に生まれて
バッハは音楽一家の出身で、彼の家系では200年以上にわたって多くの音楽家を輩出していました。彼が生まれるずっと前から、ドイツ中部のチューリンゲン地方では「バッハ」と言えば「音楽家」を意味するほどだったそうです。
しかし、バッハの人生は決して平坦ではありませんでした。9歳で母を、10歳で父を亡くし、兄のもとで育ちました。後に彼は最初の妻マリア・バルバラとの間に7人の子供をもうけましたが、そのうち4人は幼くして亡くなりました。マリア・バルバラ自身も、バッハが演奏旅行から戻ると突然亡くなっていたという悲劇に見舞われています。
その後バッハはアンナ・マグダレーナと再婚し、13人の子供をもうけました(合計20人の子供!)。そのうちの何人かは、ヴィルヘルム・フリーデマン、カール・フィリップ・エマヌエル、ヨハン・クリスティアンなど、後に有名な作曲家になりました。アンナ・マグダレーナは素晴らしい声を持つ歌手で、バッハの良き理解者でもありました。彼女のために作られた「アンナ・マグダレーナのための音楽帳」は、今日でもピアノを習い始めた人がよく弾く曲集です。
#### バッハの面白いエピソード - 牢屋に入れられた作曲家?
バッハには興味深いエピソードがたくさんあります。若い頃、彼はヴァイマルという町の宮廷で働いていましたが、より良い条件の仕事を求めてケーテンという町に移りたいと申し出ました。ところが、彼の雇い主のヴァイマル公がその申し出を拒否したのです。バッハが再三懇願するも許可は下りず、ついにバッハは職務怠慢の罪で牢屋に入れられてしまいました! 4週間の拘留の後、ようやく解放され、ケーテンへの転職が許可されました。
また、バッハは歩いて400キロ以上の旅をしたこともあります。若い頃、リューベックという町に住む有名なオルガニスト、ディートリヒ・ブクステフーデの演奏を聴くために、休暇をもらって徒歩で旅をしたのです。行きだけでなく帰りも歩いたので、往復で800キロ以上になります! しかも休暇は4週間だったのに、彼は4ヶ月も戻らなかったので、雇い主からこっぴどく叱られました。しかし、その旅でバッハが得た音楽的インスピレーションは計り知れないものがあったでしょう。
さらにバッハは視力の問題も抱えていました。晩年、彼は白内障に苦しみ、当時としては先進的な手術を受けましたが、成功せず、ほぼ完全に視力を失ってしまいました。それでも彼は音楽を作ることをやめず、最後の作品「フーガの技法」は口述で書き記させたと言われています。
#### バッハの傑作 - 教会音楽から世俗音楽まで
バッハの作品は実に多岐にわたります。彼の宗教的な作品には、「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」「ミサ曲ロ短調」などの大規模な合唱曲があります。「マタイ受難曲」は、イエス・キリストの最後の数日間を描いた壮大な音楽劇で、演奏時間は3時間近くにも及びます。
器楽曲では、「ブランデンブルク協奏曲」「管弦楽組曲」「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」などがあります。鍵盤楽器のための作品も数多く、「平均律クラヴィーア曲集」「フランス組曲」「イギリス組曲」「ゴルトベルク変奏曲」などが有名です。
「ブランデンブルク協奏曲」には面白い逸話があります。バッハはこの6曲の協奏曲を、ブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに献呈しました。新しい職を求めていたバッハは、この曲集を「応募書類」のようなものとして送ったのです。しかし、辺境伯はこの素晴らしい音楽を評価せず、バッハを雇うこともなく、楽譜は図書館の片隅に放置されてしまいました。100年以上後、この楽譜が発見され、今では最も愛されるバロック音楽の一つになっています。ですからバッハが生きている間、この曲が演奏されることはなかったのです。
「平均律クラヴィーア曲集」も特筆すべき作品です。この曲集は、24の調(12の長調と12の短調)それぞれに前奏曲とフーガを1曲ずつ、合計48曲を収録したもので、第2巻も同じ構成で、合計96曲になります。これは単なる曲集ではなく、新しい調律法(平均律)を実証するための教育的な作品でもありました。それまでの調律法では、一部の調でしか演奏できませんでしたが、平均律の採用により、あらゆる調で演奏可能になったのです。
#### バッハの遺産 - 一度は忘れられた天才
バッハは同時代には主にオルガニストとして知られており、作曲家としての評価は高くありませんでした。彼の死後、彼の音楽スタイルは「古風」と見なされ、ほとんど忘れられてしまいました。彼の息子たちの方が当時は有名だったほどです。
しかし、バッハの死後約80年経った1829年、作曲家フェリックス・メンデルスゾーンがバッハの「マタイ受難曲」を再演しました。これをきっかけに「バッハ復興」が始まり、彼の音楽が再評価されるようになったのです。今日では、バッハは音楽史上最も偉大な作曲家の一人として広く認められています。彼の音楽は、その複雑さと深さにおいて他に類を見ないものです。
### ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル - 国際的な音楽家
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)は、バッハと同じ年に生まれたドイツ人作曲家ですが、その経歴は大きく異なります。バッハがほとんどドイツから出ることなく教会や小さな宮廷で働いたのに対し、ヘンデルは国際的な音楽家でした。イタリアで学び、最終的にイギリスに定住して、イギリス国籍も取得しています(イギリスではジョージ・フリデリック・ヘンデルとして知られています)。
#### ヘンデルの冒険 - 法律家から音楽家へ
ヘンデルの父親は彼に法律家になってほしいと思っており、音楽の勉強を禁じていました。しかし、幼いヘンデルは屋根裏部屋に小さなクラヴィコードを隠し持ち、家族が寝静まった夜に練習していたと言われています。ある日、ヘンデルの父親がザクセン=ヴァイセンフェルス公爵の宮廷を訪問する際、7歳のヘンデルがこっそり馬車に忍び込み、同行してしまいました。宮廷のチャペルでヘンデルがオルガンを弾く機会があり、その才能に公爵が感嘆し、ヘンデルの父親に音楽教育を受けさせるよう勧めたのです。
このエピソードが本当かどうかは分かりませんが、確かにヘンデルは音楽の道を歩むことになります。18歳でハンブルクのオペラハウスでヴァイオリン奏者として働き始め、21歳の時に初めてのオペラ「アルミラ」を作曲して成功を収めました。
#### イタリアでの修行とイギリスでの成功
ヘンデルは1706年から1710年までイタリアに滞在し、イタリア・オペラのスタイルを学びました。ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリなどを訪れ、当時の一流の音楽家と交流しました。この時期に彼はオラトリオ「勝利のための復活」やオペラ「アグリッピーナ」などを作曲しています。
1710年、ヘンデルはハノーファー選帝侯(後のイギリス王ジョージ1世)の宮廷楽長に任命されましたが、すぐにイギリスへ渡り、そのまま定住することになります。イギリスではイタリア・オペラを紹介し、「リナルド」などの作品で大成功を収めました。
面白いエピソードとして、ヘンデルの雇い主だったハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として即位した時、ヘンデルは許可なくイギリスに滞在していたため、王の怒りを買っていました。この不和を解消するために、ヘンデルは「水上の音楽」を作曲し、王がテムズ川をボートで進む際に演奏させたと言われています。王はこの音楽に大いに喜び、ヘンデルを許したそうです。
#### ヘンデルの名作 - 「メサイア」とオラトリオの成功
1730年代、イギリスでのイタリア・オペラの人気が衰えると、ヘンデルはオラトリオというジャンルに転向しました。オラトリオはオペラと同様に声楽曲ですが、衣装や舞台装置を使わず、宗教的なテーマを扱うことが多いものです。
1741年、ヘンデルは「メサイア」を作曲しました。キリストの生涯を描いたこの作品は、彼の最も有名な作品となりました。「ハレルヤ・コーラス」は特に有名で、この部分が演奏されると、観客が起立する習慣があります。これは初演を聴いたイギリス王ジョージ2世が感動のあまり立ち上がったことに由来すると言われています。
「メサイア」の作曲にまつわるエピソードも興味深いものがあります。ヘンデルはこの大作を、なんとたった24日間で完成させました! 食事も取らず、ほとんど睡眠も取らずに作曲に没頭したと言われています。彼は後に、「メサイア」の「ハレルヤ・コーラス」を書いている時、「天が開き、偉大なる神自身を見た」と語ったそうです。
ヘンデルのオラトリオには他にも「サウル」「イスラエル・エジプトにて」「ソロモン」など優れた作品があります。また、「王宮の花火の音楽」「水上の音楽」などの管弦楽曲も人気があります。
#### ヘンデルの晩年と遺産
ヘンデルは晩年、バッハと同じく視力の問題に悩まされました。彼も手術を受けましたが成功せず、最終的にはほぼ失明状態になりました。それでも彼は音楽活動を続け、自作のオラトリオの演奏会ではオルガンを弾いていました。
1759年4月14日、「メサイア」の演奏会の8日後、ヘンデルは74歳で亡くなりました。彼はイギリスのウェストミンスター寺院に埋葬され、国葬に近い盛大な葬儀が行われました。バッハとは対照的に、ヘンデルは生前から高く評価され、死後もその名声は衰えることはありませんでした。
### バッハとヘンデル - 二人の巨匠の比較
バッハとヘンデルは同じ年に生まれ、同じドイツで音楽教育を受けましたが、その後の人生は大きく異なりました。バッハは主に教会や小さな宮廷で働き、宗教音楽や教育的な音楽に力を注ぎました。一方、ヘンデルは国際的な音楽家として活躍し、オペラやオラトリオといった大衆向けの音楽で成功を収めました。
二人の音楽スタイルも異なります。バッハの音楽は複雑で対位法的であり、深い宗教的感情に満ちています。ヘンデルの音楽はより劇的でメロディアスであり、大規模な合唱と管弦楽の効果を巧みに使っています。
興味深いのは、この二人の巨匠が生涯一度も会うことがなかったという事実です。一度だけ会えそうな機会がありましたが、残念ながら実現しなかったのです。1719年、ヘンデルがドイツを訪れたとき、バッハは彼に会いたいと思い、20マイル離れたハレという町まで出かけました。しかし、ヘンデルはすでにその町を離れており、二人は会うことができませんでした。音楽史上最大の「もし会っていたら」というエピソードの一つでしょう。
次の章では、バロック音楽のもう一つの中心地、フランスとイギリスに目を向け、それぞれの国独自のバロック音楽について探っていきましょう。
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