第27話「感謝を抱きしめて」

 真那子は、昇降口のベンチに腰を下ろしていた。放課後、誰もいなくなった校舎の静けさが好きだった。玄関のガラス越しに見える夕暮れは、日に日に陽の角度を変え、今日は橙というより、どこか金色に近い光で世界を包んでいる。ほんの少し風が吹けば、扉のガラスが小さく揺れ、その度に階段の壁に反射する光もゆらりと揺れた。

 手のひらには、折りたたんだままの手紙があった。昼休みに誰かの机にそっと差し入れたもの。宛名はない。たった一言、「ありがとう」とだけ綴った。送り先は、いつも隣で笑ってくれるクラスメイトだった。特別なことをされたわけじゃない。ただ、ふとした言葉に救われた。心が沈んでいた日、彼女の明るい声が、沈んでいた自分をほんの少しだけ浮かせてくれたのだ。それを伝えたかった。ただ、それだけだった。

 けれど、感謝を言葉にするのは思っていたよりずっと難しかった。

 感謝されることには慣れていた。周囲と調和を大切にして生きてきた真那子は、人の気持ちを読むのが得意だった。誰かが戸惑っていれば間に入り、空気が硬ければ柔らかくほぐす。それが自然だったし、自分の居場所を保つ手段でもあった。

 でも、誰かに「ありがとう」を“届ける”というのは、なんだか怖かった。言葉にすることで、自分の中の繊細な部分が露わになる気がしたからだ。受け取った側が困るんじゃないか、重たく感じるんじゃないか――そんな考えが頭を離れず、手紙一枚を書き上げるのにも、随分と時間がかかってしまった。

(こんなことで、ぐるぐる悩んでる自分、面倒くさいな)

 そう思いながら、笑う気にもなれず、唇をきゅっと結ぶ。ベンチの上に鞄を置き、指先で制服の袖をなぞる。やわらかな布の感触が、少しだけ気を紛らわせてくれる。

 そのときだった。ふと視線を落とすと、足元のコンクリートに、封筒が一枚、まるでそっと差し出すように置かれていた。誰の手も届かぬような位置に、まるで彼女がここに座るのを知っていたかのように。

 恐る恐る拾い上げた封筒は、クリーム色の紙に、春の陽だまりのような金色の光沢がうっすらと滲んでいる。封の中心に刻まれていたのは、たった一言。

「ありがとうを、忘れないあなたへ」

 心臓が小さく跳ねた。まるで、自分の中にしかないはずの想いを、そっと掬い上げられたような感覚。指先が微かに震える。封を切ると、内側から香るように、柔らかい文字が現れた。

「感謝は、誰かを照らす光であり、あなた自身をあたためる焚き火です。伝えようとする気持ちは、どんな形であれ、きっと届きます。あなたの優しさは、ちゃんと、見えている。」

 読み終わると同時に、涙がひと粒、頬を伝った。知られたくなかった想いを、誰かにそっと包まれたようで、こらえようとしていたものが、溶けて零れた。それは悲しさでも、寂しさでもなく――ただ、誰かに気づいてもらえたという、安堵だった。

 スマホが震えた。画面には、新しいアプリ「Gratia」のアイコン。柔らかなベージュの背景に、二つの手が重なり合うようなマーク。タップすると、白い光のなかにメッセージが浮かび上がる。

「感謝を言える人は、世界にやさしさを循環させる人です。そのやさしさは、あなたの中に確かにある。」

 真那子は、そっと目を閉じた。そしてポケットから取り出した、自分が書いた小さな手紙をもう一度見つめる。折り目の癖のついたそれは、もう誰かの元に届いているだろうか。もし届いていたら、どうか、ほんの少しだけでも、あの子の心に明るい火が灯っていますように。

 それを願って、彼女はベンチを立った。胸の中に小さな花が咲いたような、そんなやさしい気持ちを抱えて。

 終

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