第25話「一歩を決める、やわらかな覚悟」
さらさは、美術室の前でしばらく立ち止まっていた。ガラス張りの扉越しに見える静まり返った室内、夕陽が差し込む角度で木製の机がオレンジ色に照らされ、キャンバスの白がひどくまぶしく見えた。誰もいない。今日の放課後は部活が休みのはずだったのに、なぜか足がここに向かっていた。
重い扉を押すと、ぎい、と古びた蝶番が控えめに鳴いた。中は静かで、窓の外から鳥の鳴き声と、遠くのグラウンドの砂を踏む音が微かに届く。さらさはそっと奥の机に腰を下ろし、まだ描きかけのF4サイズのキャンバスを見つめた。そこには自分の手で描いた“何か”がある。花のようでもあり、煙のようでもあり、形を定義するのが難しい、不確かな“かたち”。
その曖昧な形に、自分自身を重ねてしまうのが最近の癖だった。
さらさは「自分の行動に責任を持つ」と、常に意識して生きてきた。そうするのが当たり前だと思っていたし、その信念に誇りも持っていた。でも同時に、その強さは彼女の心に“硬さ”を生んでいた。自分の決断が間違っていてはいけない。誰かのせいにすることなく、自分の足で歩くと決めたからには、後戻りできない。
けれど――だからこそ、怖くなるときがある。ほんの小さな選択ですら、正解を選ばなければいけないような圧に変わって、自分の肩にのしかかる。今日、美術の授業で先生に「思い切って全然違う色を使ってみて」と言われたとき、筆が止まった。失敗が怖い。違うと否定されるのが怖い。
自分は「素直な子」だとよく言われる。それはきっと本当だ。大人の言うことにもよく耳を傾けるし、誰かの意見にも柔軟に対応できる。でも、その素直さが自分の“芯”を失わせてしまっているのではないか――そんな不安が、最近よく心に浮かぶようになっていた。
(私って……自分の絵、好きなのかな)
問いかけた途端、ふっと風が吹き抜け、机の上に置いていた布の端がめくれた。その下に、見覚えのない白い封筒が一枚、そっと忍ばせるように置かれていた。
さらさは驚いたように封筒を手に取った。手触りは柔らかく、紙質は和紙のように繊細で温かい。封には金の糸で縁取りがされており、文字は淡い桃色のインクで綴られていた。
「選ぶことを、恐れないでください。」
その言葉を読んだ瞬間、胸の奥が不意に掴まれるような感覚に襲われた。まるで、心の底にしまい込んでいた「怖さ」を、そっと指でなぞられたような感覚。封を切る手が、少し震えた。
中には、手紙と、小さな花のシールが一枚。同封の手紙には、こう綴られていた。
「選ぶということは、あなたがあなたである証です。どんな結果になっても、その一歩があなた自身をつくっていく。間違いを恐れるよりも、選ばずに立ち止まることを恐れてください。」
さらさは、そっとその紙を持つ指に力を込めた。自分の行動には、常に意味がなければならないと思っていた。誰かに誇れる、胸を張れる理由がなければ、ただ“選んだ”という事実が怖くて仕方がなかった。でも今、自分が選んできたすべてが、「今ここにいる自分」を作ってきたのだと、この手紙は静かに語りかけてくる。
スマホが震えた。「Pathmaker」という新しいアプリの通知。空色のアイコンに、小道がまっすぐに伸びるシンボル。タップすると、白い画面に淡い光が広がり、一行のメッセージが浮かぶ。
「選んだ道が、あなたの道になる。それだけで、意味は充分です。」
さらさは目を閉じ、深く呼吸をした。その呼吸は、まるで新しい空気を身体に通す儀式のようだった。まだ何色にも染まっていないキャンバスが、自分の前にある。そこに何を描くか、どう描くか。それは、誰の指図でもなく、自分の意志で選んでいい。
「……やってみよう」
小さな声で呟いて、さらさはパレットに手を伸ばした。今まで使ったことのない色――紫がかったグレイッシュブルーを、そっと筆に取る。
たとえまだ自信がなくても、その一筆は確かに、自分で決めたものだった。
終
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