第20話「沈黙の中で、声を読む」
遣は、職員室前の廊下で立ち尽くしていた。渡すべきプリントが手元にある。その紙切れを、ただ教師の机に置くだけのはずなのに、足が前に進まない。視界の奥で、教師たちが何人も雑談しながら笑っている。賑やかでもなく、冷たいわけでもない、ただの日常的な風景のはずなのに、その空気の厚みを感じてしまった瞬間、遣の喉はすうっと乾いていった。
彼は、人の気持ちが分かりすぎるところがあった。誰かが笑っていても、その笑顔の裏にある小さな疲れに気づいてしまう。誰かが怒っていても、その怒りの根底にある孤独や焦りが透けて見えてしまう。本人が口に出さなくても、声のトーン、まばたきの速さ、手元の動き、体の向き、全てがまるで感情の字幕のように映り込んでくる。だからこそ、自分の言葉一つで、誰かを傷つけてしまうのではないかという恐れが、常に付きまとっていた。
話す前に考えすぎてしまう。何度も頭の中で言葉をシミュレーションして、それでも正解がわからなくて、結局黙ってしまう。周囲からは「無口だけど、優しいやつ」と言われることが多い。けれど実際の彼は、優しいというより“慎重すぎる”だけなのだった。
その日も、職員室に入るまでに五分以上かかった。ようやく一歩を踏み出して、担任の机にプリントを置き、誰にも何も言われないうちに足早に教室へと戻った。ドアの向こう側に一歩入った瞬間、身体から一気に力が抜けるのがわかった。
(はあ……)
心の中でため息を吐く。クラスメイトたちはまだ何人か教室に残っていて、グループで何やら話していた。遣は視線を逸らすように窓際の自分の席へと戻る。視界の端に映った誰かの笑顔が、ほんの少しだけ作り物に見えた気がしたけれど、それを口に出すことはなかった。
誰かの“本当”が見えてしまう。けれど、それに触れれば壊れてしまうかもしれないという恐れがある。だから黙る。気づかないふりをする。その優しさは、ある種の自己防衛だった。
机に腰を下ろした瞬間、机の上に見慣れない封筒が置かれているのに気づいた。白い紙に包まれたそれは、誰の落とし物にも見えなかった。きちんと整えられて、まるで遣がここに戻るのを待っていたかのようだった。封筒には、小さな文字でこう書かれていた。
「言葉の奥にある声を読む者へ」
胸の奥で、何かが静かに震えた。誰かに“呼ばれた”気がした。自分にしか届かないような、そんな優しいトーンの言葉。慎重に封を切る。中には、短い手紙が一枚。
「あなたが感じ取った誰かの本音は、きっとあなたの優しさそのものです。けれど、沈黙のままでは、想いは届かない。言葉にすることでしか、あなたの気づきは誰かを救えない。」
読むごとに、手がかすかに汗ばんでいく。自分がずっと避けてきたこと。見えすぎるがゆえに、壊すことを恐れて口にしなかったこと。けれど、それを“言葉にする責任”が自分にもあるのだと、誰かが静かに、やさしく指摘してくれているようだった。
スマホが震える。画面を見ると、アイコンが一つだけ新しく表示されていた。「SilentEcho」――灰色の背景に、小さな吹き出しのマークが静かに光っている。タップすると、こう表示された。
「言葉は怖い。けれど、それを越えて伝えようとする心は、きっと誰かに届く。」
心が、少しずつほぐれていくのが分かった。今まで、沈黙こそがやさしさだと思っていた。けれど、本当にやさしいというのは、時に怖さを抱えながらも、一歩を踏み出すことなのかもしれない。
窓の外には、やわらかな夕陽が差し込んでいた。遣は小さく息を吐き、ようやく胸の奥に張りついていた透明な壁が、音もなく崩れていくような感覚を味わっていた。
終
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