第18話「助けを呼ぶ手は、決して弱くない」
幸紀は、放課後の図書館で静かにペンを走らせていた。校舎の裏手にあるこの小さな書庫は、他の誰も寄りつかず、陽の差し込まない穏やかな場所だ。蛍光灯の光が机上を白く照らし、時折ページをめくる音と、書き込みのペン先の走る音だけが、部屋の空気を切り取っていく。周囲が静かであればあるほど、自分の内側にあるものがよく聞こえるようになってしまう――そんな恐れを、彼は抱いていた。
ノートの上に並んだ文字列は、すでに十分すぎるほど完成されていた。宿題は午前中に終えていたし、予習も済んでいる。それでも、何かを書き続けていなければならなかった。机に向かってさえいれば、「誰かに追いつくために努力している」自分でいられる。動いていなければ、自分はただ立ち止まっただけの存在になってしまうような気がして、怖かった。
彼は、“努力すること”そのものに取り憑かれていた。周囲からは「ストイックだね」「マジメだね」と言われてきたし、それは必ずしも悪い評価ではなかった。けれどその裏側には、どこか焦りと怯えがあった。もともと要領がいいタイプではなかった。運動もそこそこ、勉強も上の中。どこに出しても「悪くはない」けれど、「目立つほどではない」。その評価に、彼はずっと抗っていた。
(何かを成し遂げなければ、自分には意味がない)
そう思い込むようになったのは、いつからだろう。たぶん、小学校のときに兄と比較されていた頃からだ。兄は、文武両道で誰にでも愛される、いわば“完璧”な存在だった。その兄の背中を追いかけてきたが、いくら走っても距離は縮まらなかった。だからこそ、幸紀は“地道な努力”だけが、自分を支えてくれる唯一の道具だと信じるようになった。
その信念は確かに彼を強くした。中学では成績上位をキープし、生徒会にも入った。高校でも真面目さが評価され、教師からの信頼も厚かった。けれど――その全ては、誰かに褒められるために、自分の価値を証明するために積み上げたものだった。
疲れているのに、それを認めることができなかった。弱音を吐けば、自分の努力が“脆いもの”だったと証明されてしまう気がした。だから、笑って「大丈夫」と言う。けれど、本当は誰かに「手伝おうか?」と言ってほしかった。本音を言えば、「助けて」と叫びたかった。
そんなことを考えながら、彼はペンを置いた。ふと視界の端に違和感を覚える。隣の机の上に、封筒が一枚置かれている。つい先ほどまではなかった。誰かの忘れ物か、それとも――。彼は静かに手を伸ばした。
封筒の表には、銀のインクでこう記されていた。
「助けを求められる人は、強い人。」
その一文を読んだ瞬間、胸が小さく鳴った。何かが、自分の内側の深い場所を突いてきた気がして、思わず視線を下げる。封を切り、中のカードを取り出す。
「努力を続けられるあなたは、確かに強い。でも、人の手を借りることを恐れている限り、その強さは孤独になる。助けて、と言える勇気は、あなたにしか持てない真の力です。」
読み進めるにつれ、肩から力が抜けていくようだった。頑なに握りしめていた自分だけの努力。必死に繕っていた完璧な自分。それを、誰かがそっと肯定してくれるような、そんな感触がこの手紙には宿っていた。
心の奥に、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。
そのとき、スマホが小さく振動した。画面に表示されたのは、「Bridge」という名のアプリ。深緑の背景に、手と手をつなぐシンボル。タップすると、静かな光と共に文字が浮かび上がる。
「自分の手を、誰かに差し出す勇気を持てたとき、そこに本当のつながりが生まれる。」
幸紀は、スマホを胸元に当てて、深く息を吐いた。もう一人で全部を抱え込まなくてもいい。助けを求めることは、弱さではない。それは、信頼であり、勇気だと――ようやく気づけた気がした。
彼はそのまま立ち上がり、窓の外を見た。夕焼けが遠くのビル群を照らしていた。明日、誰かに「手伝って」と言えるだろうか。それができたら、今日より少しだけ、軽くなれる気がした。
終
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