第9話「静かなる眼差しの行方」
江梨菜は、窓際の席から廊下側をふと振り返った。教室の前の黒板に立つ教師の声は、静かに整っているが、彼女の耳にはどこかくぐもって届いていた。午後の社会科の授業。教室の空気は少し乾いていて、淡い眠気がまぶたの裏に滲んでいる。隣の席の男子が何かを落とし、床にカツンと乾いた音が響いた。けれどその音にも、彼女は驚かない。日常の些細な変化に、心のどこかがいつも先回りして備えてしまうのが彼女だった。
彼女は、観察している。常に、誰かの表情、言葉の裏、姿勢の変化を。誰かが机に頬を預ける角度がいつもより深いだけで、昨夜遅くまで泣いていたかもしれないと察してしまう。誰かの声が一音だけ掠れると、きっと我慢していた涙が喉を締めつけていたのだと、感じ取ってしまう。
だから、誰かと話すときは、注意深く言葉を選ぶ。誰かを傷つけないように、傷つかないように。表面上は穏やかで、優しそうに見えるらしい。けれど、それは「そうあろうと努めている」からに過ぎなかった。本当は、誰よりも他人に敏感で、他人の痛みが、自分の痛みのように染み込んでくるのだった。
「江梨菜ちゃん、ノート貸してくれない?」
前の席の女子が、やや無遠慮な口調で振り返った。いつものことだった。自分がノートを取っていることを知っていて、何度も繰り返されるこのお願い。それでも、彼女は微笑んで頷いた。
「うん、いいよ」
相手は「ありがとー」と軽く言いながらノートを取っていった。江梨菜はその背中を見つめながら、胸の奥にわずかな重さを感じていた。断れないのは、嫌われたくないからではない。相手が困っていることが、何よりも自分の中で無視できないだけ。たとえ、それが利用されているとわかっていても。
放課後、教室を出る足音が廊下に並び始めても、江梨菜はすぐには動かなかった。鞄を閉じる手をわざとゆっくりにして、みんながいなくなるのを待つ。そうしてから教室を出て、階段を下り、人気のない図書館の隅の席に座るのが、最近の習慣だった。
その日も、彼女は静かにその席へ向かった。図書館の奥の窓からは、放課後の陽が差し込んでいて、本棚の影が床に斜めに延びていた。誰もいない。ページをめくる音さえも響くほどの静寂の中、彼女はふと、テーブルの上に置かれた小さな封筒に気づいた。
誰のものだろう。図書館員の忘れ物か、それとも――と一瞬だけ逡巡し、けれど彼女はすぐにその封筒を手に取った。触れた瞬間、何かが心の奥で小さく鳴った。それが何の音だったのか、すぐにはわからなかった。ただ、確かに「これは自分のためのものだ」と感じてしまった。
封筒の表には何も書かれていない。ただ、一切の飾り気もない、質素で、けれど不思議と温もりのある白い封筒。その封をそっと開けると、中には一枚のカードが入っていた。そこには、美しい筆致でこう綴られていた。
「静かに感じる心は、最も深く人に触れる。あなたの優しさは、誰かの救いになっている。」
その一文を読んだ途端、息をするのを忘れていた。誰にも見られていないはずなのに、まるで心の奥を見透かされたような、照れにも似た動揺が身体を走る。いつもは他人の気持ちを読む側だった。けれど今、誰かに「読まれてしまった」ことが、怖くて、そして少しだけ嬉しかった。
彼女は目を閉じて、静かに胸に手を置いた。涙が出るほどではなかった。でも、何かが確かに震えていた。自分のしてきたことが、意味のあるものだったと、誰かに教えられたような気がした。それだけで、ほんの少しだけ、自分を肯定できる気がした。
ふと、ポケットのスマホが震えた。ディスプレイを見ると、通知もアプリも表示されていない。ただ、ホーム画面の中央に、小さな金色の蝶のアイコンが揺れていた。タップすると、画面が光り、そして一行のメッセージが浮かび上がる。
「共感は、世界を繋ぐ鍵となる。」
その言葉が、静かに彼女の胸に落ちていった。まるで、ひとひらの雪が肌に触れるように優しく、けれど確かな温度を持って。
そして、画面に浮かぶ地図のような図形と、目的地を示すような白い光の点。まるで“行くべき場所”を示しているようだった。江梨菜は迷わず、鞄を肩にかけて立ち上がった。
自分の感受性を、誰かに理解された。それだけで、歩き出す理由には十分だった。
終
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