第4話「視野のその先へ」
ヨシヒトは、校舎裏のベンチにひとり腰を下ろしていた。春の終わりに差しかかるその日、風は少し冷たくて、木々のざわめきが耳に心地よい。手の中には半分読みかけの本。けれどページは開かれたまま動かず、視線は遥か遠くの空を彷徨っていた。真っ青な空に、ところどころ筋雲が流れ、まるで自分の思考のように掴みどころがない。
放課後のざわついた空気から、わざと外れてここに来た。昼休みも、下校時も、ヨシヒトは誰かとつるむことはない。特に孤独を好んでいるわけではないのに、なぜか自然とそうなる。誰かに囲まれ、目の前の話題に花を咲かせる同級生たちを横目に見ながら、心の奥に浮かぶのはいつも「それで、彼らはどこへ向かっているのか?」という問いだった。
ヨシヒトにとって、物事を一方向から見ることは耐え難かった。会話の裏にある感情、教科書の行間に隠された思想、教師の言葉の温度差。すべてを拾い集めようとするその癖が、彼を時折疲弊させた。頭の中は、いつも多重構造になっている。いくつものレイヤーで世界を見て、分析して、比較して、それでも納得のいく「答え」が出ないと、自分を責めてしまう。
その日も、何かが引っかかっていた。昼のHRで配られた進路希望調査票。進学か、就職か。それを決めるには、どれだけの未来を想像すればいいのだろう。今日、目の前にある「問い」が、五年後の自分を決める。それがどうにも恐ろしかった。自分の中にある“選択肢”という引き出しは、多すぎるのかもしれない。誰もが右を選ぶ時に、自分だけが左や斜め上を思いついてしまう。そんな自分を、いつからか「変だ」と思うようになった。
ふと、ポケットの中でスマホが震えた。見れば通知ではない。アラームでもない。画面に浮かび上がったのは見慣れぬアプリのアイコンだった。インストールした覚えはない。それなのに、そこには小さく「Vision Gate」と書かれている。なにかのゲームかと思い、指で軽く触れると、画面が暗転し、続いて淡い光が満ちた。
「君の視点に、もう一つの目を。」
電子音と共に現れたその文字に、ヨシヒトの心が静かに波打つ。“もう一つの目”という表現に、ただの広告とは思えない深さがあった。普段なら一蹴してしまうだろう。しかしその瞬間、彼の中に、いつも抑え込んできた衝動が顔を出した。
――誰よりも多くを見たい。多くを知りたい。だが、それは誰よりも苦しむということでもある。
画面が切り替わる。そこには、自分の通う学校の俯瞰図。そして点滅する一つの教室。「開かれた視点」と書かれているその部屋に、何かがあると直感した。
「なんなんだよ、これ……」
思わずつぶやく。理屈で理解しようとする癖が、いつものように言葉を並べ始めるが、その思考のどこかで、「行くべきだ」と声がした。行ってしまえば、視野がもっと開けるかもしれない。そんな予感が、彼を立ち上がらせた。
ベンチを離れ、教室のある棟へと歩く。夕焼けが差し込む廊下はどこか異質に感じられた。誰もいないはずなのに、微かな気配がする。足音が妙に反響し、まるで誰かに見られているかのような錯覚に襲われる。
教室の扉の前に立つと、胸が高鳴った。普段、どんな難解な本を読んでも動じないのに、今はまるで試験前のように手が震える。だがそれでも、彼は静かにノブを回し、扉を押し開けた。
そこには誰もいなかった。ただ、教壇の上に一冊のノートが置かれていた。ノートには何も書かれていない。白紙だった。けれど、ページをめくった瞬間、そこに文字が浮かび上がってくる。
「視野を広げる者は、孤独を知る。しかしその孤独こそ、真実への鍵。」
胸がざわめいた。誰がこんな言葉を?なぜ、自分に?思考が止まり、膝から力が抜けそうになる。けれど、これは偶然ではない。ヨシヒトは直感する。自分がいま立っている場所は、確かに「選ばれた」場所なのだと。
ノートの最後のページにはこう書かれていた。
「この世界は多面的である。すべてを知ろうとする者よ、そのまま歩め。」
その言葉が、どこか救いにも感じられた。孤独を恐れることなく、理解を諦めることなく、ただ真っすぐに。
ヨシヒトはノートを閉じ、胸元に抱えた。教室を出ると、空はすでに藍色に変わり始めていた。夕闇の中、彼の目には確かな光が映っていた。
終
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