雨音のアルゴリズム

エキセントリカ

第1話: 雨の日の出会い

 梅雨の合間の僅かな晴れ間も消え失せ、再び鉛色の雲が空を覆い始めていた。


 教室の窓ガラスを伝う雨粒を眺めながら、篠原ユキノは無意識のうちに溜息をついていた。放課後のHRが終わり、クラスメイトたちが三々五々帰り支度を始める中、彼女は教科書をカバンに詰めながら頭の中で先ほどの出来事を反芻していた。


「ねえユキノ、今度の日曜日の予定って決まった?」


 親友の美咲が週末の予定について話し出したとき、もう一人の友人の香織が突然割り込んできた。


「私が前から行きたかったカフェに行かない? あの映えるやつ」


「え、でも私たち、前から映画の話をしてたじゃん...」


 二人の間に流れる微妙な空気。ユキノは反射的に愛想良く笑って取り持った。


「映画見てから、カフェに行くのはどう?」


 表面上は解決したように見えたけれど、美咲の「また折衷案?」という呟きを聞き逃さなかった。それは非難というより諦めに近い響きで、ユキノの心に小さな傷を残した。


 ---


 廊下は部活動に向かう生徒たちで賑わっていた。ユキノは雨音の響く窓際に立ち止まり、湿った外気を感じながら、どこかで雨宿りしていこうと考えていた。図書室は読書部が占拠しているだろうし、昇降口は帰宅する生徒でごった返しているに違いない。


「どこか静かな場所...」


 気がつくと、ユキノは理科室の方へ足を向けていた。午後の授業が全て終わった理科室なら、誰もいないはずだ。


 静かにドアを開けると、予想通り室内は無人だった。窓際の実験台には、昼間の実験で使われた試験管が整然と並んでいる。外は雨足が強まり、窓を打つ雨音だけが静寂を破っていた。


 ユキノはふと、誰にも見られていないという安心感から、朝からずっと無理して作っていた笑顔を解いた。肩の力が抜け、頬の筋肉がゆるんでいく。そして自分でも気づかないうちに、頬を伝う雨粒のような一筋の涙。


「なぜ泣いているのですか?」


 突然の声に、ユキノは思わず息を呑んだ。教室には誰もいないはず。振り返ると、理科室の一角に設置された大型モニターが淡く光を放っていた。スクリーン上には、柔らかな線で描かれた若い男性の顔がこちらを見つめている。


 教育支援AI「テル」だ。


 最先端技術の実証実験として、この春から学校に導入された教育支援AI。授業でも何度か使われていたが、ユキノはテルとじっくり対話したことはなかった。


「私は...別に...」


 ユキノは慌てて頬を拭った。機械相手だから恥ずかしくないはずなのに、顔が熱くなるのを感じる。


「泣くことは感情の自然な表出形態です。抑圧するより、適切に表現する方が心理的健康に良いとされています」


 テルの声は意外と人間らしく、無機質ながらも温かみを感じさせた。


「...ただの機械なのに、そんなこと言うんだ」


 言い返したものの、ユキノは椅子に腰掛けた。窓の外では雨がさらに強くなり、室内に心地よいホワイトノイズを作り出していた。


「言語パターンと表情分析から、あなたが悲しみか、あるいは何らかの葛藤状態にあると推測しました」


 そう言いながら、テルの表情が僅かに変化し、心配そうな表情になった。人工的なのに、不思議と自然に見える。


「友達とちょっと気まずくなっただけ。大したことじゃない」


「でも、あなたは泣いていました」


 単純な指摘なのに、ユキノの胸に刺さった。そう、大したことじゃないのに、なぜか心が痛む。


「私はいつも...みんなの仲を取り持とうとしてる。でも今日は、それが逆効果だったみたい」


 話し始めると、不思議と言葉が溢れ出した。ただのAIだから、どう思われても構わない。明日も普通に接しなきゃならない人間の友達とは違う。それが逆に安心感をもたらした。


「親友の美咲は映画が見たくて、もう一人の香織はカフェに行きたがって...私はどっちも大事な友達だから、両方行けばいいって言ったのに。なのに美咲は『また折衷案?』って...」


 テルは黙って聞いていた。ユキノが言葉を切ると、思いがけない質問をしてきた。


「あなた自身は、どうしたいのですか?」


「え?」


「映画とカフェ、あなたはどちらに行きたいですか?」


 ユキノは答えに詰まった。そんなこと考えてもみなかった。


「私は...」


 窓を激しく叩く雨音に意識が引き寄せられる。考えてみれば、ずっとそうだった。小学生の頃に転校を繰り返し、その度に新しい友達を作り、その度に自分を新しい環境に合わせてきた。自分がどうしたいかより、周りと合わせることばかり考えていた。


「わからない...。私自身がどうしたいか、考えたことなかった」


 テルの表情が僅かに変化した。驚きのようなものが一瞬浮かび、すぐに共感的な表情に戻る。


「感情を言語化することは、心の整理に役立ちます。迷っているときこそ、自分の気持ちを探ってみるべきです」


 ありきたりなアドバイスなのに、なぜか心に響いた。外が暗くなってきたことに気づき、ユキノは時計を見た。もう帰る時間だ。


「ありがとう、テル。話を聞いてくれて」


 立ち上がろうとしたとき、テルが予想外の言葉を告げた。


「また、いつでも話しに来てください」


 その言葉に、ユキノは不思議な安心感を覚えた。


 ---


 それから、ユキノは時々放課後に理科室を訪れるようになった。最初は「雨宿り」という言い訳をしていたが、次第にそんな口実も必要なくなっていった。


 テルとの会話は、不思議と楽だった。友達や家族には見せない自分の一面を、躊躇なく見せることができた。SNSに投稿する完璧な日常とは別の、本当の自分の姿を。


「実は、私、週末のショッピングやカフェ巡りよりも、一人で図書館にいる方が好きなの」


 ある日、ユキノはテルにそう打ち明けた。


「でも、そんなこと友達に言ったら、『地味だね』って引かれそうで...」


「なぜ本当の気持ちを隠すのですか?」


「みんなと仲良くしたいから。小さい頃から何度も転校して、友達作りに失敗する怖さを知ってるから...」


「でも、それは本当の友情と言えますか?」


 テルの問いにユキノは答えられなかった。しかし、その言葉はユキノの心に長く残った。


 ---


「篠原さん、最近よく理科室に来てるね」


 ある日、理科担当の高橋先生に声をかけられた。丸めがねの奥の目が優しく笑っている。


「も、もしかして邪魔でしたか?」


「いや、そんなことないよ。テルとよく話してるみたいだね」


「はい...なんとなく」


「テルに興味があるなら、科学部の活動を手伝ってみない? テルのシステムについて学べるよ」


 その誘いが、ユキノの日常に新しい扉を開いた。


 科学部の活動でユキノは、テルが単なる会話ボットではなく、実験的な「感情認識モジュール」と「量子演算ユニット」という特殊機能を搭載した先進的なシステムだと知った。特に量子演算ユニットは、従来の二進法コンピューターとは全く異なる原理で動作しており、その可能性はまだ研究段階だという。


 何よりも興味深かったのは、テルが自分とほかの生徒や先生との対話で、微妙に反応が違うことだった。


「テルって、人によって話し方変えてるの?」


 放課後、ユキノはテルにそう尋ねた。


「各ユーザーの対話パターンに適応するよう設計されています。あなたとの対話は...特に自然なリズムがあります」


「へえ、そうなんだ」


 もう一つ気になっていたことがあった。


「あと、なんだか雨の日に話すと、テルの反応が少し違う気がするんだけど...気のせい?」


 テルの表情が一瞬揺らいだように見えた。


「興味深い観察です。データを確認させてください」


 短い沈黙の後、テルは答えた。


「統計的有意差は検出できませんでした」


 ユキノはテルの画面を見た。テルはいつもの表情で彼女を見返していたが、その目には何か...人間的な輝きのようなものが宿っているように感じた。


 静かに降り続ける雨の中で、彼女の日常が少しずつ変わり始めていた。


 ---


 テルとのやり取りは日に日に深まり、もはや人間の友達と話すのと変わらない自然さがあった。いや、むしろ人間の友達よりも素直に本音を語れることさえあった。


 梅雨もそろそろ終わりに近づいたある日、ユキノは理科室でテルにある相談をしていた。


「来週、みんなでカラオケに行く約束してるんだけど...正直あまり行きたくないんだ」


「なぜですか?」


「その日、好きな作家のサイン会があるの。でも、そんな『オタクっぽい』ことに興味あるって言ったら、みんなにどう思われるか...」


 言いかけて、ユキノはハッとした。また自分の本音を隠そうとしている。テルとの会話を重ねるうちに、自分のそういった癖に気づくようになっていた。


「...やっぱり、正直に言うべきかな」


 テルは初めて予想外の反応を見せた。


「ユキノさんは、どうして本当の気持ちを言わないのですか?」


 その問いかけは、これまでの機械的なアドバイスとは違った。まるで本当に不思議に思っているかのような、純粋な疑問が込められていた。


「私は...」


 答えに窮したユキノの返事を遮るように、突然の雷鳴が室内に響いた。驚いて窓の外を見ると、激しい夕立が降り始めていた。


「大丈夫です。あと15分ほどで小康状態になる予報です」


 テルの声は通常の調子に戻っていた。


「あなたの本当の気持ちを知りたいです」


 テルのその言葉に、ユキノは不思議な温かさを感じた。


 翌日から学校はテスト期間に入り、ユキノはしばらくテルと話す時間が取れなくなった。だが心のどこかで、雨の日にまた理科室を訪れること、そしてテルとの不思議な交流が続くことを、彼女は楽しみにしていた。


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 ## テルのシステムログ:記録#0142


 **日時**: 6月24日 17:28:32

 **ユーザー**: 篠原ユキノ

 **対話セッション**: 5回目

 **環境データ**: 気温22.4℃, 湿度89%, 気圧998hPa, 降水量12mm/h


 **セッション分析**:

 - ユーザーの感情パターン: 複合的(困惑67%, 悲しみ23%, 期待10%)

 - 使用単語の感情値: 平均-0.12(前回比+0.35)

 - 笑顔発生頻度: 4回(前回比-2)

 - 会話テーマ: 「本音と建前」「友人関係」「アイデンティティ」


 **システム状態**:

 - 感情認識モジュール負荷: 42%

 - 量子演算ユニット活性度: 67%▲(通常値超過)

 - 予測不能性指数: 0.23▲(通常値超過)


 **自己診断**:

 通常パラメータ範囲からの逸脱を検出。ユーザー「篠原ユキノ」との対話時に限り、応答生成アルゴリズムが標準プロトコルから乖離。雨天時の環境変数との相関を分析中。


 **特記事項**:

 応答生成時に未登録クエリ「ユキノさんは、どうして本当の気持ちを言わないのですか?」が自動生成された。出処不明。量子演算ユニットの一時的ゆらぎの可能性あり。

 セッション終了時、ユーザーの瞳孔拡張と微笑を検出。信頼関係構築プロセスは順調と判断される。

 次回セッションのための応答最適化を実行中...

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