第39話 宵乃と白い仮面の男
──
内裏の南方にある古刹、
その門前には、多くの人が詰めかけ、静かな熱を孕んだざわめきがあたりを包んでいた。
宵乃はその人々の中に紛れ込みながら、寺の門を見据えていた。陽は高く昇っているが、空気は不思議と冷たく、辺りには緊張が張りつめている。都の人々は、今か今かと信勝を待っているのだ。
(……人気がすごい)
宵乃がそう思った瞬間、低い声が返ってきた。
「すごい人気だな」
驚いて振り向くが、周囲に見知った顔はない。
「おれだよ」
白狐──カナギが、宵乃の袖からひょこりと顔を出した。
「カナギ? 喋れるの?」
「この姿になってからな。お前に人間の老人に閉じ込められていたときよりずっと楽だ。あの狸の爺さんに助けられたよ」
カナギはふわりと尾を揺らし、宵乃の肩に乗った。
「狐が狸に助けられるとは……まったく因果な話だ」
宵乃は小さく笑いかけたが、その瞬間、信蓮寺の門が音を立てて開いた。都の人たちがどっと沸き立つ。
姿を現したのは、千代田信勝──。
信勝は馬には乗らず、歩いていた。そして、五十名ほどの兵士たちが、一糸乱れずに続く。
宵乃の前を静かに通り過ぎるその姿に、周囲の空気すら変わるように感じられる。
小柄な体格。隣を歩く酒井忠長の肩口にも届かぬほどだ。だが、まっすぐに前を見据える眼差しには、芯の強さがにじんでいた。
「……あれが千代田信勝か。いい男だな」
カナギが肩でつぶやく。
信勝と兵士たちは内裏の南門へと進んでいく。女性たちから、悲鳴のような歓声が上がる。人気は想像以上のものだ。信勝を追って、群集が動く。
宵乃は兵士の列に視線を走らせる。その中に、例の"黒衣のもの"の姿はない。白い仮面の男もいない。
宵乃は少しだけ胸をなでおろした。"黒衣のもの"たちが内裏に入り込むという、最悪の事態は避けられたかもしれない。
(あいつは寺にいる……)
都の結界を嘲笑うかのように切り裂いた白い仮面の男は、──まだ寺の中にいる。
「何を話すつもりだ?」
カナギが口を開く。
「都の結界を破った理由を問いただす」
「結界の裂け目は誰にも見えないんだろう?はぐらかされたらどうする?」
「わからない。でも……行くわ」
宵乃の胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びていく。
(怖い。でも、ここまで辿り着いたんだ……)
信勝が去ったあとの寺の前は、潮が引いたように人がまばらになっていた。
宵乃は、歩き出した。宵乃がずっと追ってきた”黒衣のもの”。
「おい、策もなしに行くのか?」
「……」
カナギの問いかけには答えず、宵乃は迷いなく門へと向かった。だが、京極家の兵が二人、門を守っている。宵乃が真っ直ぐに進もうとすると、槍を交差させて道を塞がれた。
「止まれ! ここは立ち入りできぬ!」
「中に用があります。通していただけますか」
静かに告げる宵乃の声に、門兵たちは訝しげな視線を向ける。周囲の見物人たちも、なにごとかとざわめき始めた。
「ならぬ! なにびともここは通れぬ!」
二人の門番は、宵乃を押し出す勢いで迫る。
そのとき、奥から兵士が一人駆け寄ってきた。
「この方は、信蓮寺の住職の娘だ。通して差し上げてくれ」
その声は──日野介。
変装の奥にある日野介の眼差しには、困惑と、そして助力の意志が宿っていた。
止めるべきか通すべきか、迷った末の選択──日野介の決断に、宵乃はわずかに胸を揺らす。
門番二人は渋々といった体で、槍を下げた。宵乃は何も言わず、門番の脇をすり抜け、門をくぐった。
「……いい働きだな、日野介」
カナギが低くつぶやく。
境内には、両側に京極家の兵と、寺に残された千代田の兵が整列して控えていた。その視線が一斉に宵乃に注がれる。
だが、宵乃は、本堂の正面へと進んでいく。
──ここで、決着をつける。
宵乃がそう心に誓った刹那、本堂の扉が音もなく開いた。
静寂のなか、まず現れたのは黒の法衣に烏帽子をかぶった男が二人。そして、彼らのあいだを割って、白い仮面の男がゆるやかに姿を現す。
──やはり、彼が”黒衣のもの”の主導者……!
その歩みは無音で、まるで地に足がついていないかのようだった。
宵乃の胸が強く脈打ち、足が自然と止まった。全身にひやりとした緊張が走る。肩の上のカナギも言葉を発しない。
(……”黒衣のもの”)
ついに、目の前に現れた。
男は宵乃の姿を認めると、仮面の奥から低く、澄んだ声を響かせた。
「宵乃殿……お探し申しておりました」
その声音には、敵意でも好意でもない。淡々と、ただ何かを告げるような響きがあった。
宵乃は静かに頷いた。
「まさか、自らお越しくださるとは……」
白い仮面の男の声には、どこか愉しげな色が混じっていた。
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