第19話 結界守の少女
少女がすっと一歩、宵乃たちに近づいた。
その瞬間、結界がわずかに震えた。宵乃の耳は、結界の音の乱れを聞き取った。危険が迫っている――そう直感した。
日野介もそれを感じ取ったのか、一歩後ずさる。背負ったカナギの体が小さく揺れた。
次の瞬間、少女の姿がふっとかき消え、……気づけば日野介の背後に立っていた。
「……動けば、殺すと言った」
その声は冷たく、刃のように鋭い。
日野介の肩がこわばり、空気が凍りつく。
気配に気づいたコモリが身をひねるようにして振り返ると、──いつの間にか、少女はコモリの背後に立っていた。少女の尖った指先が、コモリの腰に触れている。
「お前もな」
感情の起伏を感じさせない淡々とした声。
その平坦さによって、むしろ少女の空恐ろしさが際立つ。
宵乃は、思わず声を上げた。
「待ってください!」
自分でも震えを感じる声で続けた。
「私たちは……招かれてここへ──!」
「わらわには関係ない」
少女の口調は変わらない。
「わらわは“今宵の結界守”。結界に異物が触れれば、排除するのみ」
冷ややかに言い放つと、少女はまっすぐ宵乃を見つめた。その眼差しには、子どもらしさは微塵もなかった。澄んだ静けさと、測りきれない距離感──ただそれだけ。
「……お主とは、どこかで会った気がするのじゃが……」
少女はそうつぶやいたが、宵乃に心当たりはない。
「それ以外は──女の忍び、未熟な剣士、そして封印された妖狐。……どれも血の臭いが濃いわ」
少女はほんのわずかに口元を緩めた。
風が強く吹き抜け、木々がざわめいた。
──そのとき。竹藪の奥で草を踏む軽い足音。ほどなく、闇にゆらめく灯りがふたつ。
藍染の着物を着た男女の
──人の姿をした狸が、提灯を手に下げて現れた。
「──ヨリ様。その方々はお客人にございます」
男の狸が穏やかな声で告げる。
少女──“ヨリ”と呼ばれたその存在は狸を
「……助かったな。次はないぞ」
そう言い残し、闇に溶けるように姿を消した。
「た、たぬき……?」
日野介のつぶやきに、狸の男女は「ほほ」と笑った。
「左様。我らは狸の夫婦にございます」
女の狸がふんわり微笑む。
張りつめていた空気がわずかに和らいだ。
「ご無礼をお許しください。まずは今夜の宿へご案内いたします」
その声に、宿の灯りのような温かさが滲む。
歩き出してほどなく、宵乃の肩から力が抜けるのがわかった。
さっきまでの少女の殺気──その冷たい声が耳の奥にこびりついて離れない。
「子どもとは思えない殺気だったな……」
日野介が肩を落としながら漏らすと、狸の旦那がどこか誇らしげに言った。
「ヨリ様は結界守。あれでも彼女なりの歓迎のしるしなのですじゃ。どうかご容赦を」
「とても歓迎された気はしなかったけどね」
コモリが苦笑し、緊張が少しほどける。
森の奥に灯る小屋へ辿り着く。
簡素だが清められ、入口に小さな注連縄と鈴が掛けられている。
「ここは妖も狸も出入りできますゆえ、ご安心を」
女の狸がほほほと笑い、襖を開けた。
四組の布団がきれいに敷かれ、床はつややかに磨かれている。囲炉裏があり、部屋の隅には薬草と小瓶が整然と並んでいた。
狸の旦那が落ち着いた口調で告げる。
「明朝、卯の刻に千影の神社へ。我らの仲間が集いますゆえ。それまではどうかお休みを」
そして、カナギへ視線を移し、穏やかに続ける。
「その老人の姿をした妖狐──こちらに寝かせてください。わしが少し診ましょう」
言われるまま、宵乃たちはそっとカナギを奥の布団へ。
眠るように静かな顔は血の色を失い、人形のように生気が薄い。
狸の旦那は膝をつき、額に掌を添えた。しばしの沈黙のあと──
「……これは、人間の体が、もはや“
「じゃあ……封印を解けば、カナギは元に戻るんですか?」
宵乃は問いかけた。
しかし、狸の旦那が、ゆっくりと首を横に振った。
「今は、ならぬ。魂と身体の結び目が切れておる。いま封印を解けば──妖狐の魂は行き場を失い、この世とあの世の狭間へ流されよう」
宵乃はごくりと唾を飲み込んだ。たとえ百人以上を殺めた妖だとしても、一度は私たちを救ってくれた身……それに、カナギとの契約は、まだ終わっていない。
(私の勝手で、この魂をどうこうするわけにはいかない……)
「しばらく、わしらに預けてくだされ。わしらが、手を尽くしましょう。いずれにせよ──都の結界は”妖”を通さぬ。つまり、この妖狐は都の中へは入ることはできぬ」
狸の旦那はそう言って、宵乃を見た。
「わかりました。カナギのことはお任せいたします」
宵乃は深く頷いた。
「さて、明日は早うございます。まずは皆さま、お身体をお休めくださいな」
奥さん狸の言葉が、張りつめた空気をそっとほどいた。
◆
眠りは浅く、夢と現の境が曖昧なまま、宵乃は目を開いた。
外はまだ闇に包まれている。ただ、気のうねりが昨夜とは違っていた。
──昨日はいなかった何人かが、すぐそばにいる。
敵意はない。しかし、只者ではない。宵乃の胸の奥がそわそわとざわめいた。
宵乃がそっと身を起こすと、囲炉裏端に小さな炎が揺れていた。コモリがその脇で忍具を広げ、丁寧に布で拭っている。こちらに気づき、コモリはわずかに微笑むと、すぐにまた手元へ視線を戻した。
日野介の寝床はすでに空っぽだ。夜明け前の薄光りが、畳の端をわずかに照らしている。
宵乃は囲炉裏に水を入れた鉄瓶をかけた。そっと炭を継ぎ足す。朝に茶を点てるのが、宵乃が育った
障子が開き、冷たい空気とともに日野介が戻ってきた。日野介は肩で静かに呼吸を整えている。
「皆起きていたか。稽古したら目が冴えてしまってな」
宵乃はそっと湯呑を手に取り、湯気の立つお茶を日野介の前に差し出した。
◆
朝靄の立つ林道。
宵乃たちは、狸の旦那に案内されて昨日の鳥居へと向かった。
東の空が淡く朱を帯びはじめ、濡れた葉先から雫が落ちた。
三人は深く礼をしてから、鳥居をくぐった。
狸の旦那は、神社の本殿の横に伸びる小さな道を先導する。
「露が降りております。足元、お気をつけなされ」
低く穏やかな声が響く先に、古びた門がひっそりと佇んでいた。その門にも、柔らかく淡い結界が張られているのが宵乃にはわかった。
(……露地門?)
宵乃は一歩足を止め、ふっと気づく。茶室──これは、茶の湯の席への入り口。俗世と隔てられた、静謐な空間。
宵乃はやや緊張をにじませながら、門をくぐった。日野介とコモリがすぐ後ろに続く。
露地はこぢんまりと手入れが行き届き、苔むす石灯籠と草花の静かな彩りが、夜明けの薄明かりを映している。
「茶室での会合……なのですね」
宵乃が小声でたずねる。
「そうじゃ。昔からの我々の伝統での」
狸の旦那はにっこりと目を細め、低い声で答えた。
狸の旦那に続き、三人は
外待合の腰掛けには、一人の武士がすでに座っていた。狸の旦那が会釈をすれば、相手も無言で返す。
「日野介殿はここまでじゃ」
狸の旦那は、日野介にここで待つように告げた。日野介は少し不満げな顔をしたが、おとなしく武士の横に腰を下ろす。
宵乃とコモリは茶室のにじり口へ向かう。そこには刀掛けがあり、二本の刀と弓矢が丁寧に置かれていた。
宵乃は、背をかがめて茶室の中へ──
すでに数名の影が薄明かりの中で待っていた。張りつめた空気が宵乃の全身に伝わってきた。
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