第4話 出立の朝

 朝の光が、囲炉裏の縁に差し込んでいた。


 静かな茅葺かやぶきの一軒家。村人たちが、宵乃たちに礼として用意してくれた宿だった。木の香が残る板の間、炉の上には湯気立つ鉄瓶。


 宵乃は、革袋から小ぶりの茶碗となつめを取り出した。棗の蓋を開け、茶杓ちゃしゃくで抹茶を一杯、茶碗にとる。母の形見の茶道具だ。茶筅ちゃせんを振り、丁寧に点てていく。


 昨夜の白狼の瞳が、まだ脳裏に焼きついていた。怒りと悲しみの残火──忘れたくても、残るものがある。


 しかし——どこにいても、自分で点てるこの一服が、朝の支度。宵乃の日課であり、祈りのようなものだった。



 囲炉裏の脇には、村の老婆が届けてくれた握り飯。

 白米に焼き味噌がのせられ、香ばしい湯気が立ちのぼっている。


(……白米なんて、久しぶり)


 戦乱の続くこの時代、米は貴重だ。村人の気持ちが、ありがたかった。


 囲炉裏を挟んだ向こう。すでに身支度を整えた青年が、土間の柱にもたれている。髪は肩まであり、藍の紐で無造作に束ねられていた。


 名は──日野介(ひのすけ)。


 昨日になってようやくお互いの名前を知った。齢十八。主に仕えることもせず、ただひとり剣の道を極める旅を続けているという。戦国の世では珍しい。腕に覚えのある男は、どこも兵として重宝されるからだ。


「……食べられるようになったんだね」


 宵乃がぽつりと呟く。妖気に侵されていた体は、すっかり回復しているようだった。


「昨日一日寝たからな」


 それきり、会話は止まった。


 日野介は、部屋の隅に目をやる。畳にじっと座る白髭の老人。微動だにせず、表情ひとつ変わらない。目の前に置かれた笹の葉の上には、手つかずの握り飯。


「……じいさんは、食わないのか?昨日から何も食べていない」


 日野介が眉をひそめる。宵乃は肩をすくめる。


「……たぶん、好みじゃない。」


「米が嫌いなのか。聞いたことがない」


「……まあ、そんなとこ。」


(違うけど、今はそれでいい)


 日野介は、声をひそめて、

「表情も、まったく動かない。……変わったやつだ」


 日野介が空になった自分の笹の葉と、手つかずの握り飯を見比べる。


「……もったいない。もらっていいか?」


「どうぞ」


 静かな朝。湯の音と、ほのかな米の香りだけが、囲炉裏端を満たしていた。


 見送りのとき、村の長が包んでくれた路銀を、宵乃は丁寧に断った。


「……犠牲になった方もいました。鳥居の修復と犠牲になった方の供養にお使いください」


 白狼は再び封印され、結界は戻った。

 だが、犠牲になった村人もいる。


「領主には、報告に戻ります。依頼はそちらからでしたので」


 三人は村の門をくぐった。


 都へ向かう日野介と、領主の居城を目指す宵乃。進む方向は正反対。

 宵乃は、手を軽く挙げた。別れの合図のはずだった。


「俺も、そっちへ行く」


「……え?」


 思わず、宵乃は聞き返す。


「女と爺の旅なんて、危ないにもほどがある」


「これまで、ずっとそうしてきた。別に問題はない」


 小さく唇を尖らせて、宵乃は答える。


「……妖怪やもののけならともかく、盗人や山賊が出たらどうする?」


「私たちで対処できる」


「そうは見えないが。とにかく借りを返すまで付き合わせてくれ」


「……そう。邪魔しないなら、ご自由に」


 そのまま、また会話は途切れた。


 宵乃にとって、日野介がついてこようが、こまいが、大きな問題ではなかった。ただ、きっとそのうち、彼の方から去っていくだろう。宵乃の旅は、地味で、つまらない。


 ただ、結界の綻びを見つけて、縫い直すだけの旅だ。



 ◆



 草原を切り裂くように、風が容赦なく吹きつけていた。


 日野介が歩きながら問う。


「……急いでるのか?」


「いつも、こうだから」


 実際、宵乃と老人の足は、女と老人とは思えないほど速かった。日野介ですら息をつきたくなるほど、無駄がない。


 やがて三叉路に差しかかったところで、宵乃がふと足を止めた。


 その傍ら、小さな石積みと、手の欠けた猿の石像。風に晒され、苔むしている。


 宵乃はしゃがみこみ、何かを唱えるように口を動かした。手のひらを、そっと石積みに添える。


「どうしたんだ?」と日野介は問う。


「……ここ、結界が綻んでいた」


 宵乃は石像を指差した。とは言っても、日野介には結界など見えない。


「道祖神——昔、誰かが旅の無事を祈って作った場所。年月をかけて、拝んだり、掃除をした人たちの気持ちで、自然とできた結界……」


「もう、手入れがされていないな」


「そう。手入れがされなくなると、結界も自然と失われていく。戦が続くと、人の心にも余裕がなくなる」


 宵乃は静かに立ち上がった。


「戦で失われるのは、人だけじゃない。願いも、祈りもだよ」


 そして、また歩みを進めた。

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