弐四ノ舞
「8二歩打……はい?」と、俺は乙葉の意図を尋ねる。
「いいからっ」
更に強引に手を引っ張られ、俺は乙葉の思いのまま引き摺られていく。無論その間も目隠し将棋は続いた。やがて仮設トイレが視界に入ると、俺は納得した。少しトイレから距離をとって立ち止まり顔を真っ赤にして、乙葉は言った。
「いい? あんたはここで待って大声で秒読みすること、7八歩成」
「ここからですか? 8一歩成」
「当たり前でしょっ。音が聞こえたらどうすんのよ? もし聞こえたら、あんた明日からその顎で食事できると思わないでよっ。えっと……5八金」
まるで親の敵を罵倒するように青筋をたてて乙葉は言った。
音、生理的な音だから仕方のないことだが、女性である乙葉の言い分も理解できたが、わざわざこんなまどろっこしいことせずとも、トイレに行きたいと言えば中断するのだが。
「トイレなら遠慮なく行って下さい。別に中断すればいいことでしょう? 待ってますからゆっくりどうぞ、2五桂」
「舐めんじゃないわよっ」と叫ぶように言って、今までにない険しい目線で俺を睨む。
「今わたしたち勝負をしてるのよ。中途なことはできない、4二金」と、俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。
ブイエス、ただの練習将棋ではあるが、やはり真剣勝負なのだ。賭ける気持ちの差を、その彼女の意識の高さというのだろうか、その差を見せつけられ、俺は変な気を使ったのだとその時後悔した。
「わかりました、4九香」と、俺は頷いた。
「オッケー、わかればいいのよ。私が指したら大声で秒読みすること、いいわねっ? うーん、2四銀っ」
「はい、いきますよ。7五歩打」
「オッケー、大声よ」と、言って乙葉は簡易トイレに駆け込む。
俺は大きな声を上げカウントをとる。「1、2、3、4、5、6、7……」通り過ぎる人が何事かと見るが、子供が騒いでる体で特に気にせず過ぎていく。
「6五角!」プレハブの簡易トイレから乙葉の声が聞こえる。
俺は心の中で7秒秒間思考次手を大声で叫ぶ「8七角、1、2、3、4,5、6、7、8」
「4八金!」
「同銀、1、2」
俺が秒読みを開始すると、ドアが開き彼女がスタスタと近づき、顔を少しそむけて言った。
「ありがと……7五竜」
胡坐をかいていた俺は正座に直ると頭を下げて言った。
「参りました」
その言葉を聞いて乙葉も頭を下げた。
「何手?」と、汗をタオルでぬぐいながら来栖女流が問う。
「一六二手です」乙葉はそう答えて、息を吐き出した。
「手合いはありか?」横で成り行きを見守っていたお師さんが聴いてくる。
「わたしが後手です」
「ふむ、さすが乙葉だな」
「んー」と、乙葉は唸ってしばらく考えると言った。「あんまり認めたくはないですけど、予想以上の強さです。終盤の受けと粘りは驚きました。ここまで受け潰されるとは思いませんでしたので」
「修身殿のアイギスの盾はなかなかのものだろう?」
「アイギスって、イージスの盾のこと?」と、来栖女流が問う。
「左様、こちらが相手にミサイルを撃ち込んできても、そのミサイルを目標にこちらも迎撃のためミサイルを発射して目標を破壊……つまり受け潰す。海軍の艦船に装備されたイージスシステムのようにな」
「あぁ、なるほど、こっちが指した駒を受けて、潰す……そうですねそんな感じの受けでした」と、乙葉は頷きながら言った。
終盤は後手の詰めろが続き、俺は苦しい中この間飛躍的に向上した受けで、詰めろを受け続けた。詰めろが途切れると、俺が攻める。しかし、こちらはまだ相手の囲いを破れず、向こうの攻めが整うとすぐに攻勢に出られてと、半歩一退といった戦況が続いたが、結局俺は乙葉の防御網を突破できず、相手の詰めろに俺のイージスシステムは弾切れで陥落した。
「手数も一五〇手こえましたし、攻めが止まると、じりじり本陣に駒が攻め込まれてきました……ここまで手が伸びるとは思いませんでした。けど……」と、乙葉は顎先に人差し指を置いて言い淀んだ。
「ふむ、言ってみせてくれ」
「先生が見染めるだけあり、実力は充分備えていると思います。終盤のこちらの詰めろをあれだけ綺麗に受けられるとは思いませんでした。けれども序盤、中盤のリードがあったからこそ攻めきれました、実際序盤の作戦でリードされていたら、わたしがやられたかもしれません。けれど……振り飛車単品で今の奨励会を勝ち抜くのは、厳しいかもしれません。香落ちの手合割戦に関しては、振り飛車有利なのは間違いないですけどね」
「ふむ」と、お師さんは感嘆を漏らす。
奨励会の手合割は一般的に定められている方式とはやや異なり、一段級差があると平手、香落ちの交互で対局。奨励会でいう香落ちは左香落ちを意味する。二段級差は常時香落ち、三段級差は対局を組まないという方式と聞いている。
左香落ちという手合は、飛車を左陣に振ることで実質香落ちのハンデが相殺される。香落ち居飛車ではやはり相手側の左翼からの攻めに耐えられないという点があるので、左香落ちの対局は原則振り飛車で戦うと言うのが奨励会の常道である。
乙葉がいうのは香落ちでの対局は振り飛車は有利であるため、振り飛車党の俺は心配無用と言いたいのだろう。しかし、平手の場合は……
「プロ同等の最新型、今だと角交換、横歩、ボンボン出ます。振り飛車党は使い手が少なく研究は居飛車に比べ勢いがありませんしね」
「戦型は強者の影響といえるが、振り飛車党には厳しい現実だな」
現在、将棋会の若手筆頭であり、最多勝率を誇る『独眼竜』伊集院七段は居飛車党、特に角交換、横歩の達人だ。やはり、棋界は強い者こそ正義だ。トップ棋士が採用する戦型が流行するのは必然だ。何故ならば、その技をもって最多勝率を築いているのだから、下位の者が上位の者の真似をするのは当然と言える。
振り飛車は無想新手を標榜し様々な新手、戦型を編み出した乃木名誉十段によって昭和期に再評価され、西郷一五世名人とともに振り飛車を隆盛させた。しかしポスト西郷だった『宗歩以来の天才』菅野九段、そして西郷政権を崩し一時代を築いた『棋界の太陽』伊東一六世名人を筆頭とした居飛車党の反撃で振り飛車は傍流に追いやられた。そして、今の人を超えたというソフト将棋の流れで一層振り飛車は傍流の傍流に追いやられている。
「特にソフト研究が常識になっている現状で振り飛車は、圧倒的に不利です」
お師さんも振り飛車使いであると知っていながら、乙葉は遠慮なく振り飛車の欠点を突く。しかし、女流棋士はプロ棋士と環境が異なり、若干振り飛車使いの方が多い。つまり、彼女の発言は修羅の国たる奨励会で戦う者の素直な見方だと言える。
「確かにな。ただでさえ居飛車が多く、かつ研究手も居飛車の方が圧倒的に多い。コンピューターに至っては飛車を振っただけで評価関数が下がるという笑えない冗談というか、事実もあるしな」と、お師さんは呆れて笑う。
ここ数年、コンピュータによる将棋の強さは異次元の進化を遂げた。すでに人を超越した強さであり、最近までは人とマシンによる対局がネット配信の大手動画サイトで大々的に開催されていた。棋界もコンピュータ将棋と対戦を行い、結果として負け越している。
棋界の潮流として今ではソフトによる研究ありきの話になってきている。俺も、段級位は連合認定の将棋ソフトと対局して取得したし、将棋ソフト世界選手権で3位をとった『闘棋』というソフトを使って何千局と俺も練習した。
今では、三六五日二四時間、エンドレスで将棋ソフト同士が戦い続けるサイトがあり、そこで披露された手等、有用性が評価され実際のプロの対局で採用されるくらいだ。
「居飛車に転向……」と、言って乙葉は俺を見る。「しろ、とは言わないけれど、振り飛車はそれなりに大変よ」
「えぇ」と、俺は返事した。
「振り飛車党は何かこう……効率を求めると言うよりかは理想を求めるような気質の人が多いしね。あんたにも何かあるんでしょうね。けど、なんだろう、先生が目にかけている理由もわかった気がする」と、言って乙葉は俺を見つめた。「……シンプルに楽しかったわ」
乙葉は顔を少し背けて、手を差し出した。俺も楽しく指していた気がする。いや、気がするではない。楽しく将棋を指した。その証拠かはわからないが、煉獄の足音は聞こえなかった。
――伏見とブイエスしていた気分だったな。
フラッチェやら殺人光線やら、色々内心で毒づいたが対局を終え改めて乙葉と向き合う。たった一度の対局ではあるが、すでに彼女とは百の言葉を交わした感があり、棋士に言葉はいらない、盤上で会話するということを改めて実感させた。事実、互いの心の距離は近づき親近感というかそれに近い情動を感じていた。
俺は乙葉の手を握り、握手した。およそ命を刈り取るような指し回しをする手とは思えない。柔らかい艶やかな手だった。
「一つ忠告」
「忠告?」と、俺は聞き返す。
「おそらく、順当にいけば二次試験で奨励会員との対局があるわ」
奨励会入会試験は一次試験と二次試験の二回に分けて行われる。一次試験は二日間にわたって行われ、内容は筆記試験と受験者同士での対局がメインになる。対局は六局、先に四勝したものが一次試験通過となる。二次試験は、一次試験合格者と一次試験免除者が現役の奨励会56級の会員との対局で三局の内一勝すれば、試験通過となる。
「5級に怪物が一人いるわ。私の弟弟子。悔しいけど、もう私でも苦戦してるわ」
「彼か……」と、言ってお師さんが眉を寄せる。
「噂の電脳戦士ね」お師さんの言葉に来栖女流の補足が入る。
俺もわずかながらの情報で知っている。昨年入会しすぐに休場となったが、復帰後から快進撃を続けると聞いている。体があまり丈夫でなく、入院も多かったというその少年は、過去殆んどアマチュアの大会にでることはなく、奨励会に入るまで無名の棋士だった。病床の生活も長いという環境のせいもあり、殆んど対人対局をしたことがない逸話が将棋帝国の記事になった。彼は病床の上でひたすらソフト将棋と指し続け強くなった異色の棋士。既に奨励会員からは「電脳戦士」と呼ばれている。
「入会してすぐに体調を崩して、後期全て休場したけれども、前期シーズンで5級、すぐに4級に上がっていくわ。もう初段くらいの力があるわ。おそらく試験官として対局するわ。当たったら運命を呪ってもいいレベルかもね。2次は精々頑張りなさいな」
「はい、でも……すぐに追いついてみせます」と、俺は乙葉に告げる。勿論、追い付いてみせるのは目の前の少女だ。
「いい心構え……待っているわ」と、乙葉は挑発するようにニヤリと笑って言った。
お師さんは俺の肩を叩いて言った。「勝利を掴むために指すことも大事ではある。が、楽しんで指すということも大事だよ。門は姿を見せなかったろう?」
俺はお師さんの言葉に頷いた。
「削り過ぎた鉛筆はすぐに折れる。常在戦場では精神が持たぬ。戦場の中でも何か心を弾ませるモノを見つけなければ、指し続けること叶わんよ」
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