弐弐ノ舞

何度謝ったことだろうか、お師さんは少し顔をそらして少し赤くした顔で「貴殿もそう、まだまだ子供だということがわかり、安心した」と言って、俺は叫びあげ、部屋を飛び出した。

 顔を会わせる度に少し嬉しそうに「乳が出ればよかったのだが」とか、「遠慮せずにいつでも吸いにこればよい」とか、「このことは小絵殿には内緒にしておく」とか、地味に追い詰め俺を発狂させた。

 今日は外出するとのことで、いつもより早い食事が終わる頃には俺は完全に燃え尽きていた。出掛ける指示をきいていたのだが、用意する間もため息しかでてこなかった。

「荷物はもったか?」

 俺は指示通り着替えを入れたバックを持って聞いた。「はい、何処へ行くのですか?」

「バカンスだよ」

「バカンス?」

「息抜きだ。無論、将棋も指すがな」と、お師さんは口角を上げて笑顔で言った。

 襖の奥から池田さんの声が聞こえた。

「お屋形様、お車の準備が整いました」

「ふむ、行くぞ修身殿」

「は、はい」

 お師さんは、意外に直前に予定や行動を伝える。事前に聞いておくと余事色々と考えていしまう俺に対しての配慮なのか、お師さんの性格なのか、心の準備が追い付かない。

 ――バカンスって、まぁ変なことはないだろうがな。

 屋敷を出ると肌を焼くような日差しが厳しい。今日も間違いなく猛暑日となろう。

 玄関前には王冠マークの車が待機しており、高石さんがドアを開いてくれて、お師さんと俺は後部座席に乗り込んだ。初日に乗って以来だが、あの日と変わらず体が冷えすぎない程度の空調と、静かに流れるジャズが、鋼板を挟んだ向こうに猛暑の世界があることを忘れさせた。

「連れがいる故、駅前によって目的地に向かう」

「何処へ行かれるのですか?」

「葉山の別邸に行く」

「葉山? 御用邸のある葉山ですか?」

「左様、海水浴でもして気分爽快にでもせんとな」

 さらっと流すように言ったが、葉山に別邸とは別荘のことだろうか、お師さんのことは深く知らないが、やはり金持ちというか富裕層というか、スケールが大きい。

「海水浴……お師さん、僕、水着もってないですよ?」

 大体、家からは着替え数着程度しか持ってきてないのに、海パンなど持って来ているはずもない。

「男の海水浴など褌で事足りる」

「ふ、ふんどし」

 今、俺は時代錯誤と言えばよいのか、カルチャーギャップという恐ろしさを感じた。

「わたしは以前から思っておった、日本男児たる者、パンツ、トランクスなどに一喜一憂しておるのは、軟弱なる証拠。男は木綿の褌で十分というより、褌こそ礼装だ」

「お師さん、今の時代、男たるものとか、女たるものとか言うと色々面倒なことに……」

「何を言っておるか、たわけ。男と女体の作りから心の作りまで何もかもが違うのだ。その性差をだな……」

 お師さんのスイッチが入り、俺は駅に着くまで有り難い説法と、海では褌着用がめでたく決まった。

 駅前の四車線タクシー乗り場付近で、二人の客人が手を振って待っていた。一人は体の凹凸が丸わかりなワンピースに、日傘を差したコンサバーティブな装いの来栖女流。もう一人はタイトなスキニーデニムパンツに真っ白なVネックシャツに、鍔の大きな麦わら帽子を被った……フラッチェ、いや天羽氏だった。

「この間は、大変だったね。もう体調はよくって?」

 座席を譲るために降りた俺に、来栖女流は顔を覗くようにして言った。どうやら、先日の話はお師さんが適当に辻褄を会わせてくれたらしい。

「先日は大変、ご迷惑かけました。折角お相手していただいたのに」

「いいのよ、元気でよかった。杏樹さん、とっても心配していたんですのよ」

「コホン……國子、要らぬことを言うでない、早くトランクに荷をいれるのだ」と、お師さんは恥ずかしそうに言う。

 満面の笑みを浮かべ来栖女流は「はいはい」と返事する。

「どうやら、元気そうね?」と、腕を組んで俺を睨む天羽2級、一応、気にはしてくれているみたいだ。

「この間は、失礼しました」

「体調が悪かったのだから仕方がないけれど、気をつけることね。体調維持も棋士を目指す者にとっては、当然のこと。アマチュア意識を払拭することが今のあんたにはに一番必要なことね」

 ツンケンとした態度だったが、死者や敗者に鞭打つような人物ではない。さすがサムライガールと言うべきか。

「はい、ごもっともです」

「ふん、まぁ、それはさておき折角、杏樹先生が呼んでくれたバカンスにあんたがいることが疑問だわね」

「はい、それは僕もです」

「ん……?」

 天羽2級は眉をひそめて俺を見た。

 あまりバカンスという気分ではない、というのが正直なところではある。この三週間、朝から晩まで将棋のことが頭から離れていない。修行、煉獄、試験のことで脳内は飽和している。それを見越して、かどうかはわからないが、お師さんの指示に間違いはないと思って、とにかく今はリラックスすることに専念することを意識する。

「乙葉もあまり修身を虐めてやらんでくれよ、貴殿もはやく荷物をトランクに入れるがよい」

「はい、先生」

 と、目の色から声音まで180度どころか540度くらい変わっている。鬱陶しい、という部分もあるが、お師さんを慕っている点については、純粋に嬉しい。こういう具体的な姿を見るとお師さんの人徳の高さがうかがえる。

 ――母さんもお師さんのこと信用っつーか、好きだものな。

 もちろん最初からそのつもりだったのだが、フラッチェ……もとい、天羽嬢はギロリと俺を殺すかの如く睨みつけ、俺は助手席に座れオーラを漂わせていた。

 複雑な表情で助手席に座ると執事の高石さんは、俺の心を読み取ったようで軽く頭を下げた。

 ――ご愁傷様って感じか……

俺は渇いた笑いを浮かべて、それに答えた。

 時間にして四十分くらいだったろうか、後部座席は天羽2級と来栖女流のトークが交互に続き、女子会という感じで、前列男は居たたまれない気持ちになる。高石さんは完全に気配を消して運転に集中していた。居たたまれないのは俺だけだった。

 高速を下りて緑の山々を横目に海を目指して、車は走る。高石さんが要所で説明を入れてくれるので、状況を把握できた。「もうすぐ到着します」と言われたとき、葉山御用邸前という信号機と皇宮警備員の詰所があったので俺は「えっ、えっ」と戸惑ったが、御用邸の隣の森の中に車が進んで、少しほっとしたのも束の間、御用邸の隣は木々が並び、別荘や高級らしい家屋が並んでいるた。

 その中に一際古い平屋があり、そこに車が止まった。周囲の家屋と比較すると、平成バーサス明治みたいな印象を受けたが、長い年月の積み重ねから家屋からは重厚な雰囲気が漂い、格調高い威厳は周囲とは逸脱したものだった。

 ――お師さんって、女流棋士で、お茶の先生だよな……

他に何か事業を営んでいるのだろうか。横浜の邸宅もそうだが、葉山にも別棟を保有しているとなると、かなりの資産家だろう。

 ――ウィキで調べたら載ってるかな?

 直接お師さんに聞くことも、何か恥ずかしい気もしたが、こそこそ調べるのもどうかなぁと思い。俺は車を降りた。

「さぁ、早めに準備をしないと、良い場所が取れなくなる故、早く海に行こう」

 お師さんの声掛けで、俺たちは荷物を持ち、屋敷に向かった。

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