弐拾ノ舞
「十ビョウ」
カウントダウンが始まる。
耳にはなんとも言えないくぐもった空気の対流音が響き、同時に汗が吹き出し、呼吸が早くなってくる。俺の血管が広がり、溢れん張りの血液が駆け抜けていく。菅の周囲についた疲労の塊を押し流すかのごとくに。
回数を重ねる度、自分の体の変化がわかる。呼吸、鼓動は急速に早く、目の瞳孔が拡がり、手に汗が滲み、鋼鉄のように硬直する筋繊維、圧力に細胞が潰されていく歯茎。
――来るっ……
「呼吸を整えろ」
大きな女性の怒声が俺の耳に入り、加速のため助走し始めた意識にストップがかかる。
「下腹部に力を入れ、呼吸を乱すな。呼吸の乱れは恐怖に屈した証拠だ。呼吸を整えるのだ」
そうだ、これで何回目だ。もういい加減、理解してるというのに脳が勝手に突入していく。 俺は目を閉じるが、脳内に盤が展開し駒の演算が始まり逃げることができない。
「目を閉じようと『煉極』は貴殿を逃がさん。呼吸だ。呼吸だけが貴殿を助けてくれる。呼吸によって寂静を練るのだ」
――呼吸……鼻で吸って口で吐く……
腹式呼吸を繰り返す。
「五秒かけて吸い、五秒かけて吐くのだ。気を取り込み、猛る心を抑えるのだ」
意識を飛ばすと煉獄に引きずり込まれる。呼吸を整え、強制的に脳の興奮を抑える。
「心臓の鼓動に気をとられるな。静の力を取り入れ、動を吐き出せ」
体の震え、振戦が止まらない。しかし、猛る脳は抑えられてきている。
「イメージしろ、門を締めるイメージだ。閂を門に掛けるのだ」
脳の端で焔色の門に閂を掛けるイメージを必死で思い描く。そうするだけで、不思議と煉獄に引き摺りこまれるのをつま先立ちで堪えることができた。
しかしイメージできるようになってから、煉獄に引きずり込まれることはなくなったが、脳内のリソースといえばいいのか、半分は読みに半分は精神を落ち着かせるために使うことになり、読みが浅くなった。
手が震え、駒がうまく持てない。
――駄目だ……
駒を手にしたものの、震える手で盤面の駒が乱れる。意識をそらすと呼吸が早くなり、あわせて脳の演算が止まらなくなる。
――えぇいっ……
俺は歯を食いしばり、駒を盤面に押し付けた。呼吸を整えることだけを考える。
「明鏡止水、曇りない鏡のように、波紋のない水面のように心を制御しろ」と、お師さんのありがたいお言葉が飛ぶ。
勿論、練習対局は俺の敗北で幕を閉じる。
対局後は、水泳をした後のように疲労が体の芯に溜まり重苦しく、ぐったりする。
「ふむ、あれから一週間、素晴らしい進歩だ」と、お師さんは笑顔で言った。
「そうですか?」
俺としては、煉獄の門を開くことを抑制できたことに一応の達成を感じたが、盤面の指し回しには、不満が残りスッキリとしない。
「門の前で踏みとどまれているではないか」
「そうですけど、手が全然駄目です……」
煉獄に入る条件は緊迫した状況になる特に終盤の秒読み時がきっかけで、煉獄の門が開こうとする。対局時計を使ったブイエスではほぼ八割煉獄の門が開いた。幸い開門の条件が特定できたこともあり、開門を抑制する方法を練習しなんとか、踏みとどまれる状態にまでもってきた。
開門を抑制する方法自体はそれほど難しいことではない。方法を実行することが難しいのだ。まず第一に呼吸を乱さない、特に深く息を吸い深く吐くことで、酸欠状態を防ぐことで思考をクリアにする。第二に呼吸のリズムを一定にすることで、内側からくる心臓や脈拍のリズムを強制的に調律する。第三に呼吸を意識することで騒々とする思考の乱れを無視する。第四に門を閉めるというイメージで自身が煉獄に足を踏み入れないという意志をビジョンとしてもつ。
この抑制術でなんとか、意識を保ったまま対局を終えることができるようになった。
「そういう状況ではあるものの、一週間で抑制術の効果は出ている。すばらしいことだよ」
「全ての集中を読みに回すと煉獄に入ってしまいます。半分も読めません」
「抑制術を使いながらも終盤力は十分及第点だ。現状で4、3級の実力は確実にある」
「……お師さん、抑制術は、この方法しか、やはりないのですか?」
「修身殿、答えは言わずとも理解できているであろうが、敢えて言う、あれば貴殿に伝授している」
「そう、ですよね……すいません」
「よい、厳しいということ、端から見ているわたしが一番よく理解している。辛かろう……」
「いえ、倒れずに最後まで指せるようになった分、少しホッとしている部分もあるんですよ」
抑制術を伝授されたものの最初三日は発動して鼻から血を流して倒れたが、五日目からは抑制術を駆使してなんとか踏みとどまることができるようになってきた。が、対局後の疲労感が厳しい。200メートル泳いだ後のように体が重苦しく怠い。
「他に方法があるのかもしれぬが、他の抑制術を見出すより、ある一定の効果がでている方法を今は優先した。最初は困難であろうが、修練を積み重ねれば閂のイメージで自然に抑制できるようになるはずだ」
お師さんはこの抑制術に効果があったことに安堵していることは、俺にも理解できるほどの喜びようだった。
――即効性があるのがいい……
と、思うのが人というか、俺の悪いせっかちなところだ。すぐに結果を求めようとする。
――積み重ねるか……
何事も一朝一夕では成就できぬのが、この世の真理と信じる。
「閂のイメージは煉獄でなくとも、自身が狼狽えた際、強制的に心理状態を平常に戻す応用も効くという、修練あるのみだ」
「この抑制術……例の棋士の方が編み出した方法ですか?」
「左様、彼のアイデアだな」
お師さんの話ぶりから察するに、随分と近しい間柄だったのだろう。その棋士が誰なのか知りたい気もするが、何故かお師さんに問う気にはならなかった。何故か触れては、いけないような気がしたからだ。
「もともと、煉獄から帰ってくるための方法だったそうだがな。煉獄で極度に興奮した状態を抑えるためのものだったと聞いている。後年は煉獄の門を潜らぬようにと」
「煉獄のスイッチが入ると皆、引きずり込まれる感じでしょうか?」
「菩提も似たようなものだった。己の意志とは関係なく自然にその認識状態になる。しかし菩提は煉獄と比較して、心体にかかる負担は比べ物にならんぐらい軽い。むしろ負担を掛けずに将棋が指せると言っていい。今風の言い方をすれば少しハイになるような感覚だ。わたしの場合は状況、自身の心理的な面、あとはリズムというのか波に乗った時にいずれも菩提の門を開いた。頻繁に門を開くレベルには着けなんだが……」と、言葉を止めお師さんは「コホン」と咳払いをする。
「話がそれたな……菩提も煉獄も意識的に使うというのは可能かもしれんが、条件があるだろう。フロー……連続集中状態は基本だ。その先に門があるのだからな。やはり、菩提も煉獄も連続集中状態からなんらかのきっかけで……貴殿の場合は秒読みだな。で、煉獄の門に立つ条件ができる。そこで……菩提ならば迷わずその門を潜ればよいがな、煉獄は……」
「体にかかる負担ですか?」
「心と体だ。一種、覚せい剤と似たようなものだ。貴殿のようにフロー状態で秒読み毎に毎度、毎度煉獄の門を開いてみろ……すぐに病院送りになるだろう。その『例の棋士』も、煉獄の中で指し続け、乃木名誉十段と同様、過労と極度興奮状態からくる不眠症と原因不明の体調不良で心も体も悲惨なものだった。最終的には……まぁ、古い話だ」
お師さんは微かに笑っていた。しかしその微笑は渇いていた。
――勝つためだ……
決まっている、勝つためにそうせざるを得なかった。勝ちたいから自らの体を犠牲にして戦ったのだ。乃木名誉十段も秋山九段もそして、お師さんの言う『例の棋士』もだ。
――俺は『今』のままじゃ、耐えられない……
「まぁ、そうであるからこそ、煉獄の門を潜らない、すぐに門から抜け出す。抑制術を自分なりに身に着けたということだな」
ふと考え込む俺をお師さんの声が思考の世界より引き戻す。
「しかし、良かった」と、お師さんは息を吐く。
「……?」俺は何が良かったのかわからず疑問の視線を送る。
「心配していたのだ。本当に踏みとどまれるのかを……最初の二日は、貴殿に多大な負担を掛け苦労させた。師としてあの対応が良かったのか、批判されて当然だ。しかし、貴殿は自身の力で乗り越えた……本当に良かった」
「いえ、乗り越えることができたのはお師さんのお陰です」
「うむ、本当によかった。しかし、まだまだ制御が万全とは言えぬ。修行と並行して抑制の鍛錬は怠るな」
「はい」
「うむ、連日の修行に加えて煉獄に入るか否かの瀬戸際で疲れたろう。明日は少し予定がある故、今日はこれで切り上げゆっくりしよう」
お師さんの指示で、いつもより早く修行を終えた。
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