八ノ舞
栗林先生の後を追い草履を借りて裏庭に出る。先ほどの座敷から見た松やその他の木々ではなく、この庭は竹や笹が茂り、竹林を割るように伸びる通路には飛び石が設置されていた。
飛び石が示す道筋の終点には、時代劇の中でしか見たことがないような小屋があった。
「京の山崎の地に、待庵という千利休が作したと言われる現存の茶室がある。それを、模したものだ」先生は立ち止まり、俺に語り始めた。「まだ、少年の貴殿には理解できぬ『味』かもしれぬが、この茶室は切妻造りの柿葺きでな、中に入ればわかるが、茶室は二畳、次の間や勝手の間を合わせても四畳半しかない。せまい場所だ」
土でできているのか、茶色い外壁が目立つ。台風でも直撃したら倒壊しそうな、正直貧相な印象を受けた。が、しかし、何かこう清らかな浄化した空気が流れているように感じた。
「貴殿も思ったはずだ。この粗末な外観……決して華もなければで煌びやかさもない。侘びという概念でこの茶室は作られている。冨貴から解脱し、貧粗の中に精神の高潔さ充足を求める概念だ」
堂々と高説を紡ぐ先生の言葉を聞いて、ここに流れる浄化された空気の源泉がわかったような気がした。
建物の前に石造りの手水鉢と柄杓があり、先生はその前でしゃがむと言葉を続ける。
「神社と同じでな、茶室は聖域だ。今しがた通った竹林の路は露地と言ってな、現世と聖域を隔てる結界だ。故に手水により現世の穢れを払う」
そう語ると先生は柄杓で手を洗う。その後柄杓を俺に手渡し手を洗うよう目で促した。俺の神社を参拝する時の要領で両手を洗い残水で柄を洗う。
飛び石が示す順路を行くと軒のついた建物の側にたどり着く。が、入口が見当たらない、窓らしき格子というのだろうか、そういうものはある。
ここは裏手になるのだろうか、俺は入口が見当たらず建物を観察するように見た。
「入口はここにある」と、きょろきょろする俺に先生は声を掛けた。
パッと見ると、地面から30センチの高さに板が張り付けてあるだけだと思ってたのだが、実はこの板は引き戸になっており、横に滑らすと室内に続く入口になっていた。入口は60センチ四方の小さなものだ。
「にじり口といってな、茶室はこの入口を抜けて部屋へと入る。何故、このような小さい入口になっているか……想像がつくかな? 修身殿」
140オーバーの俺でも潜るのは厄介だ。大の大人となるともっと難しい。何故、こんな通りにくい入口を必要としたのか、昔の話だ。茶道は武士も嗜んでいた、ということは勿論腰に刀を差してしたわけであるから、とてもじゃないが帯刀状態では入れない。となるとだ。
「武装解除させるため?」
「三分の一正解だ」と、笑って先生が言った。
「三分の一……」
いい線いってると思ったのだが、違ったようだ。
「全く知らないながら、そこまで類推できるのは大したものだ。そう、貴殿の類推の通り、帯刀したままでは無論入ることはできない。が、茶室を使うのは武士階級の人間だけではない。刀は武装であるとともに、身分を示すものだ。その身分を示すものを持ち込ませない……」
「茶室の中では平等ということですか」
「左様、茶室内では身分がなくなる。にじり口から入る者全て身分にかかわらず頭を下げ入る、茶室の中は日常ではなく非日常という聖域だ。聖域の中では誰しもが一人の人間となる」
俺はこのにじり口の講釈を聞いて、なるほどと思った。
「そう一人の人間と……なるのだ」と、先生は続けて二度言った。その声音は重かった。
――大事だから二度言った?
「では、わたしから入る故、真似をして入られるがよい」
先生はにじり口の前にある飛び石の上にのるとしゃがみ、敷居に手を突いて草履を脱いで頭を入れ、反動をつけて中に入った。その後体を反転させにじり口から顔を出すと、脱いだ草履を壁に立てかけた。
俺も先生に習って、同じように茶室の中に入った。
「すごい……」
思わず言葉が出てしまった。室内は障子から入り込んだ微かな光に照らされ、黒ずんだ壁が鈍い光を反射し、灰色にくすんだモノクロームな世界を構築していた。先生が言った聖域という意味が、今一つわからなかったが、この空間を見ると直観的に理解できた。
目の前の床の間には『涅槃寂静』と記された掛け軸が下げられており。その直下には陶器の花瓶に紫陽花が生けられていた。部屋の隅には囲炉裏というのだろうか、30センチ四方の湯を沸かすスペースがあった。
二畳しかない部屋の中央に将棋盤と駒、その横に台に置かれた対局時計があり、すでに居住まいを正して先生がその前に着座していた。
「その床の掛け軸……涅槃寂静の意を知っているかな?」
「十のマイナス二十四乗、名前のついてる数では最小の単位です」
「ふむ……確かにそうだ。しかし数の単位でなく本来の意としては?」
「仏教で涅槃は天国という意味でしたか? 詳しくは知りません」
「涅槃……この世の理より解放された絶対自由の境地。その境地は寂静の如く、一切の雑音も身を焼く強欲の炎が存在しない安静の境地。涅槃寂静とは悟りの極地を指し示す言葉だ。覚えておくとよかろう」
先生は言い終えると盤の前に座るよう促した。俺は濃紺の座布団の上に座り、彼女と対峙する。
「たった二畳しかないこの狭い空間、手を伸ばせばすべてに手が届く、それ故に宙だ。この狭い空間である茶室は宇宙と同義なのだ。貴殿は理解できるか? それとも笑うかね?」
――ど、どういうこと?
禅問答というやつだろうか、手が届く世界が狭い世界でなく宇宙に等しいという、理解することも笑うこともできない。
「足るを知る者は富むという、それこそが侘びの極地だ。広大な茶室はもはや茶室ではない。極小の空間に宙を……宇宙を広がりを感じる。極小を知ることで、豊穣を理解できるのだ」
なんとなくだが理解できる。言葉でそれを説明するのはかなり難しいが、この茶室の中でなら理解できた。
「小難しい講釈だな……講師などしていると、ついつい驕り高ぶり、私はこれこれこういうことを知っていると知識をひけらかす。まぁ、そういう美意識の世界があることを知っていてもよかろう。しかしそなたはこの茶室でなくとも宙を感じておる。そうであろう?」先生は手を翳して盤を示す。「貴殿は盤上の宙で生きているのだからな」
俺は頷いた。十の二百二十乗通りの手があるこの八十一マスの宇宙が俺の世界だ。
先生は、微笑むと胸の帯より扇子を取り、畳の上に置いて言った。「対局に当たり、手合割を考えておった」
手合割とは、将棋の実力の差に応じて取り入れられるハンデのことだ。基本的に将棋は平手という各々二十の駒を用いて戦う。実力に差がある場合、将棋では主に段級位の差によってハンデ……手合割の基準が決まっている。段級位上位者の駒を落としていく、つまり持ち駒を減らすのだ。段級位差が一なら下位者を先手、二なら上位者が香車落ち、三なら角行落ち、といった具合だ。しかし、棋士四段以上にはこの手合割システムは適用されない。
「貴殿はアマ四段だと聞いている。対局するにあたり本来なら角行落ち……もしくは香落ちと、手割が必要であろう。だが、貴殿の真の力を見るために、此度は手合割はやらん……平手、振り駒、持ち時間十五分、持ち時間切れで一手三十秒で行う。異論は?」
天使? 美女棋士? そうではない、ここにいるのは、目の前にいるのは幾千の戦いを潜り抜けてきた戦士……本物の棋士だ。将棋にテーマが変わってから、先生の目の質が変わっていた。そして、先ほどまで漂っていた柔らかい空気が今は硬質なものに変わっている。
「ありません」
俺としても自分の実力がどの程度通じるのか、できれば平手で試したい思いがあった。これはいい機会。それに先生の実力は棋士五段相当と言われている。男性のプロ棋士との対戦成績も勝率四割と歴代最多対局、最多勝、最多勝率を上げている。
「わたしは貴殿の力を測る。故に全力で来なければ。短手数で決着がつくぞ」と、先生は言い放ち。殺気の籠った視線を俺に突き刺す。
「……全力で勝ちを獲りに行きます」俺は何とかその殺気をはねのけて答えた。
「よい心掛けだ。必死でくるがよい、貴殿の力見せてもらう」
先生は背筋を伸ばすと、将棋盤の上に置かれた駒箱に手を伸ばす。
駒の並べられていない足付将棋盤は、今まで見たことがないような美術品だった。
――俺の持ってるヤツとは全然違うぞ。
俺の足付将棋盤は、以前将棋の大会の副賞でもらったもので大きさは一番大きい60号サイズで盤の厚さ6寸ある。自宅で将棋を指すときは鼻高々でこれを使っているのだが、目の前にある将棋盤は大きさは同じである物の全く別次元のものだった。目に優しい黄土色の美しい盤で、盤上一体縦に目の詰まった木目がある。大変上等な物に違いない。
――すげぇ……
先生が駒箱より駒袋を取り出し、盤上に駒を出す。対局のマナーとして駒の出し入れは上位者が行う。駒を並べるのも上位者が先だ。
駒も盤と同じように、今まで持ったことがないような駒が盤上に転がる。琥珀のような輝きにまるで虎柄のような木目が入っている。駒の文字が漆で盛り上げられた盛上駒というだけで上等な物であるのに、もしかすると一生に一度、今日しか指す機会がないかもしれない。
先生は、目を閉じ深く呼吸を行うと、玉の駒を手に並べていく、俺も彼女に続いて駒を並べていく。
駒の並べ方も大橋流、伊藤流という二つの主流の並べ方があり、殆どの棋士が大橋流を採用している。先生も、無論俺も。玉を最初に並べその脇を左、右の順に駒を並べていく。
「美しい駒であろう? わたしのお気に入りでな……無剣書の盛上駒だ。この美しい駒が……今から我々の刀剣となる」
先生は冷たく言うと、帯から白いハンカチを取り出し盤のそばに広げた。そして盤上の歩兵駒を中央から順に五枚手にとる。その歩兵五枚を祈るように、その白く絹のような手で包み込むと、手を振って駒を混ぜ白いハンカチの上に落とす。
『歩』と書いた表面、『と』と書いた裏面。地に転がった駒の内、面上の枚数が多い方で先手後手が決まる。表なら振った栗林先生が、裏なら俺だ。
先手必勝と言われるように、先に駒を指せる先手が将棋の制度上わずかながら有利となる。なればこそ、指し手は先手を好むが必須である。
「表が三、裏が二」
――後手か……
先生は、手早く振り駒を片すと、改めて居住まいを正す。
室内は障子と格子から入る以外に光はなく、銀色の鈍い光が俺たちを照らす。笹が風になびき、そよぐ音が心地よい。
この宇宙に等しいながらも狭いこの空間の中では、お互いの瞬きの音、心臓の音、流れる血液の音が聴こえる。互いの体温で周囲の空気の温度が上がり、呼吸が室内にわずかな波を生む。
先生とはまだ、会って数十分しか経っていないが、この空間での邂逅は一分が数十倍に感じれるほどの時間密度だった。お互いに何か通じるものが生まれていた、これが茶室の持つ力なのだろうか。
「振り駒の結果、先手はわたしになった。持ち時間はそれぞれ十五分、それを使い切ると、一手三十秒未満で指すこととする」
そう伝える先生の瞳と俺の瞳が絡みあう。今、二人の律動が同調した瞬間だった。
「「お願いします」」
同時にお互いが言葉を発し、深く礼をすると対局が始まった。
先生は目を閉じ、深く息を吸い吐き出すと同時に目を見開き、7六歩を突き角道を開け、対局時計を押す。
俺も一呼吸置いて、定跡通り先手と同じく角道を開くために3四歩と突き、対局時計を押す。持ち時間が少ない早指し対局ではどの局面で時間を使うかが鍵になる。
先手番は自分が思い描いた戦型を組みやすい。代わって後手番は先手の動きに合わせた戦型になりやすい傾向があるため、その分後手がやや不利となりやすい。
序盤は定跡と呼ばれる対局者が互いに最善の手順に基づいた駒運びを行う。逆に定められた手順ではなく、その場の局面に置いて最善手を自分で考え指していく方法を力戦という。
力戦になってくるのは序盤の駒組、いわゆる駒の陣形を整えた中盤以降になる。序盤は玉の守りを固めるため様々な陣、いわゆる囲いを組んだり、相手の陣を崩す先兵の配置を行う。それぞれの戦型に応じて一番効率のよい最善手が研究されており、その効率の良い駒運びが定跡と呼ばれる。
陣……囲いを破る、先兵の筆頭ともいえる飛車を初期位置、もしくは中央五筋より右側で戦うスタイルを居飛車、初期位置から中央左5筋以降に動かして攻めるスタイルを振り飛車と呼ぶ。棋士は必ずそのどちらか、居飛車、振り飛車の二種で分類される。
この二種の特徴を簡単に言うと、居飛車は正面から攻め切ることを重視した棋風、振り飛車は相手の攻撃の隙をついて反撃する棋風といえる。
相手の隙を突いたカウンターを狙うのが俺の棋風だ。すなわち俺は振り飛車の戦型を得意とする振り飛車党。そして先生も相手の攻撃をかわし『捌いて』攻める振り飛車党だ。
この対局、おそらく振り飛車同士の相振り飛車戦型になると俺は予測した。しかし、先生の飛車は動くことがなく、飛車先の歩が2六歩、2五歩と伸びてくる。居飛車スタイルの駒運びの様相になっていた。
――居飛車でくる?
後手番振り飛車は、ただでさえ後手番で一手損であるだけでなく、相手より一手損して飛車をわざわざ移動するため、余計に不利になると言われている。が、その後手番専用の振り飛車戦法として、編み出された技がある。
――ゴキ中でやる。
それが、ゴキゲン中飛車だ。
振り飛車は基本的にカウンターを狙うため、玉の囲いを優先し、相手の攻撃が始まった隙を狙って攻撃を行う。そのため攻撃に関してはやや居飛車に比べ勢いがない。しかし、このゴキゲン中飛車は玉の囲いをやや後回しに、先に攻撃を仕掛ける。後手番振り飛車では最効率と言われる戦型だ。俺も後手番ゴキ中の研究量は他の振り飛車戦術の中でも力を入れている自信のある戦型だ。
ゴキ中は中央五筋に飛車を動かし、中央を突破する戦型。俺は後手番飛車初期位置の8二飛車を取り、横にスライドさせ5二飛車に指した。
――5二飛、俺はこれで行く。
俺は対座する先生を見た。あれだけ穏やかな光を放っていた薄い茶褐色の瞳は鋭い刀剣のような光を帯びていた。
棋士に言葉はいらない盤上の駒によって互いの全てを語るのだ。
先生の攻撃的な意思で溢れたオーラが俺を威圧する。その攻撃的オーラを表すかのように先手の右銀が上へ上へと迫り、3七銀と上がる。
対ゴキゲン中飛車戦法の筆頭、超速3七銀。
次に4六銀と上がり、5筋の自陣に向かってくる歩と、背後の飛車を迎撃するために睨みを効かせる。しかし、俺も超速三七銀で来ることは予測済みだった。角銀の両者を三段目に上げ、5筋で拠点を築く歩の援護の任を与える。
先陣はにらみ合ったまま、玉の陣を軽く囲い、中盤戦に入り力戦へと足を踏み入れる。そこから、俺は女流で最も華麗に駒を『捌く』棋士の神髄を目撃することになった。
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