愛せよ単調な生活を

加藤ともか

第1話 新しい時代

 俺は灼熱しゃくねつの砂漠の中にいる。手元のペットボトルに残る水は後わずか、一口あるかないか。地平線の向こうにはオアシスがうっすらと蜃気楼しんきろうのように見える。ああ、もう少し歩けばオアシスに辿り着ける! だが、後ろからは俺に助けを求める悲痛な声がする。

龍人りゅうと、龍人! 助けてくれ!」

 俺の名前を叫ぶのは兄さんの雅人まさとだ。振り返れば兄さんは砂に半身が飲み込まれており、全身が飲み込まれるのも時間の問題だろう。藻掻もがきながら必死に手を振っている。助けられるものなら助けたい。だが……。

「おい、龍人! どこに行く! 何か返事しろよ! 龍人、龍人……」

 俺は兄さんを見捨てた。悪い、悪く思わないでくれ。俺には余裕が無いんだ。兄さんを助けていたら俺まで砂に飲まれてしまうかも知れないし、弱った兄さんを負ぶってオアシスまで連れて行く体力もない。水も食糧も無い。俺は兄さんを見捨てて走り去った。

「りゅ……う……と……」

 かすれた断末魔を上げ、兄さんは砂の中に飲み込まれていった。俺は兄さんを……兄さんを見殺しにした。その罪悪感から逃れる為、俺は必死に走る。オアシスを目指して、振り向かずに。

「りゅ……う……と……」

「りゅ……う……と……」

「りゅ……う……と……」

 俺の頭の中で兄さんの声がこだまする。走れば走るほど、逃れようとすれば逃れようとする程。やめて、助けてたら俺も死んでたんだ、巻き添えで沈んでいたかも知れないんだ、だから……だから……。

「龍人、何故見捨てた!」

 ひぃっ! 俺の目の前に兄さんの幽霊が現れた。辺りが真っ暗になる。兄さんは俺を鬼の形相ぎょうそうにらみ付ける。お前が殺したんだ、兄さんの目はそう語っていた。

「許して、兄さん。俺は……ずっと兄さんの事が嫌いだった。いなくなって欲しいって、口には出さないけどずっと思っていた。でも、本当にいなくなってしまうなんて……そんな、そんな……」


 泣いて正直な気持ちを吐露とろし、懺悔ざんげすると辺りは急に明るくなった。何だ、夢だったか。夢って不思議だな、現実では到底起こりえない事でも、それが現実ではないと気付けない。この前観た、アラビアのロレンスに影響されてこんな夢を見たのかな。あんな風に格好良く生きたいと思えど、俺にそんな勇気は無い。目の前には11時42分を表示するスマホの待ち受け画面。ヤバい、もうこんな時間か。って、あれを見逃したではないか、そう、新しい元号の発表だ。

 俺は二段ベッドの下段から飛び出した。もう既に使わなくなって久しい上段は、使っていないけど捨てるには惜しい物の置き場になっている。滅多めったに登らないから、階段はどっか行ってしまった。部屋には2つの勉強机が並ぶ。右側が俺、左側が兄さん。部屋が共用のせいで、狭いのが嫌だったな。歳の離れた兄さんの机……だった物は簡易的な仏壇になっている。遺影の顔は享年、20歳で止まっている。8年前、2011年3月11日。その時俺は9歳。兄さんは大学の春休みだった。大学の友人と福島県の小名浜おなはまに釣りに行くと言ったきり、帰ってこなかった。帰ってこなかった理由は言うまでもない。俺と違って、医学部に現役合格して将来を約束された優秀な兄だったのにな。

 ………だから嫌いだった。親からは比較され、兄さんはこうなんだからとプレッシャーをかけられ、常に劣等感を抱いていた。もはや喧嘩を通り越して、殆ど言葉を交わさない程に関係は冷え切っていた。それでもどうにかしないと、とは思っていた。でもどうにかする機会は永遠に訪れなかった。それが今でも心残りだ。

 カーテンを開けるとそこはベランダ。母さんがいつの間にか干していたようだ、沢山の洗濯物が干されている。ベランダから見える景色は高速道路と向かい側のビルが見えるだけ。三軒茶屋さんげんぢゃやという多分一等地のマンションの最上階、しかもそこの大家という特権。だがロケーションが最悪である。まあ、これが見慣れた景色な訳だが。8年前、余震で大変だった頃、この高速道路が倒れてマンションに寄りかからないか不安だったな。


 ベランダで太陽の光を浴びて、体内時計をリセットしたら2LDKのLDK、リビングダイニングキッチン……と言うのはダルいからリビングと呼んでいるのだが、そのリビングへ行った。父さんは寝ているようで、グーグーといびきが響く。昼間から酒飲んで寝やがったか、駄目親父が。父さんと母さんの部屋は共有。夜の営みは無くなって久しく、昔使っていたダブルベッドの真横に小さなシングルベッドを並べて寝ている。ならば、あの二段ベッドを使えば良いのにと思うのだが、上り下りが面倒なのだろうな。

 リビングでは母さんがテレビをつけながら、登記簿とうきぼを書いていた。どうせ主婦になるから行く必要は無いと親から言われ、泣く泣く大学進学を諦めて若くして結婚した母さんだが、十分な知識と教養のある人だ。名目上は父さんだが、母さんが大家としての仕事を殆ど全て行っている。母さんがいなかったら、きっと空襲で一文無しからひい婆さんが女手一つで再建したこの成瀬なるせ家の資産も父さんが食い潰していただろう。

「おはよう、龍人。今日からニートだね」

 何て嫌みな事を言ってくるんだ。まあ、反論はできない。だから反論はしない。九段くだんの名門中高一貫男子校にギリギリの成績で入学し、落ちこぼれて何度も留年の危機に遭い、血を吐くような思いで卒業した。が、卒業だけで頭が一杯で、大学にはどこにも受からなかった。浪人生、と言えば聞こえは良いのだが、実態はただの無職だ。来年には大学……もう目指す気力も無い。これからどうすりゃ良いんだろうな、俺。そんな事考えたって仕方が無いから、もう考えないようにしているけど。

「行けって言ったのは母さんじゃないか。あんな男だけの空間、俺は嫌だった」

「アレか? 共学だったら彼女出来てたとでも思っているの?」

「も、もう……」

 俺はダイニングチェアに座った。テレビはCMから画面が切り替わり、ニュース番組が映る。新しい元号は令和。その発表を聞いて、新しい時代への期待に胸を弾ませる人々のインタビューが流れる。

「令和か! ねえ、母さんどう思う?」

 そう言うと、母さんの表情は曇った。

「嫌な予感がするね」

「どうして?」

「出典は万葉集って言うでしょ。千年以上も漢籍かんせきから採り続けたのに、いきなり和書わしょって。幾ら中国が嫌いだからって……」

「今までに無かった試みって事か。良いじゃん」

「良くないね。大体、元号って不合理の極みでしょ。何度西暦に統一して欲しいと思った事か。それでも続ける価値があるのは伝統だからでしょ。それをないがしろにするなんて……何か、嫌な予感」

「よく知っているな。歴史の先生にでもなれば良かったのに」

「何度も言わせないで。親がどうせ主婦になるから大学行くなって行かせて貰えなかったんだよ。全く、どこでも好きな大学に行ける環境を用意してやったのに……」

「うるさいな。勉強キツかったんだから。何回留年しそうになったと思っている?」

「こんな事になるくらいなら留年してやり直しておけば良かったのに」

「留年なんて恥だわ」

「恥なんて気にした事があった?」

「母さんが思っているよりも気にしているわ。あー、腹減ったな。朝飯は無い?」

「勉強もしない、働きもしないで偉そうに」

「申し訳ございませんでした!」

「わざとらしいな、本当に。もう朝も昼も一緒で良いだろ。これで何か食ってきな」

 母さんは俺に500円玉を一枚渡した。牛丼か、ハンバーガー程度なら食べられるか。俺はそれを受け取ると、最低限外に出られる格好に着替えて、ポケットにスマホと500円玉を入れて、外へ。スマホには高校時代の友人…と呼べる程の距離でも無いが、同級生達から大学の入学式の様子の写真がLINEで次々と。あいつらは人生を次のステージに進めているのに、俺は何をやっているんだと思うと虚しく感じる。

 母さんが実質的な大家を務める、俺の住むマンションから少し歩くと、大きなカラオケボックスが目立つY字型の交差点がある。そこを渡れば駅前のハンバーガーショップ。いつも行列を作っているが、3階建てで席も多いから案外すんなり座れる。俺は行列の一番後ろに並んだ。すると、後ろから聞き覚えのある女性の声がする。

奇遇きぐうね、龍人」

「アンナさん?」

 振り返ればそこには長い金髪の綺麗なお姉さん……兄さんの幼馴染みだったウクライナ人のアンナ・ポポワ。父親が日本のゲーム会社でプログラマーとして勤める事になった為、生まれたばかりの頃に来日し、兄さんとは同級生で幼稚園から小学校まで同じ学校に通っていた。それで家族ぐるみの付き合いがあった。父親は定年退職すると妻と共にウクライナへ帰国したが、彼女は弟のルカと一緒に今でも三軒茶屋に住んでいる。しかも、俺と同じマンションに。

「君ももう18歳か。随分立派になったね」

「ああ、そっか。俺も18か、一昨日なったばっかだけど。と言うか全然立派じゃないです。大学にも全落ちしましたし」

「そんな事言って。私が小学生の頃、あんなにちっちゃい赤ちゃんだった君が、今じゃ私よりも大きくなって……」

「大きく、って173cmですよ。170cmでしたよね、確か。3cmしか違わないじゃないですか。そんな大きくないです」

「もう、そんな事言わないで。ねえ、昔みたいにため口で話してよ。敬語じゃ何かよそよそしくて」

 明らかに日本人では無い外見の彼女が、こんなに流暢りゅうちょうな日本語を話している。家庭内ではロシア語を話していたそうだが、一歩外に出れば日本語というバイリンガル。今はそれを活かし、フリーランスでアニメやゲームのロシア語の台詞せりふを監修する仕事をしている。昔から彼女を知っている俺には何の違和感も無いが、驚かれる事は多いらしい。

「アンナ……これでどうかな?」

「いいね、そう呼んで」

「でもちょっと恥ずかしいな。恋人でもあるまいし」

「別に誰も気にしてないよ」

「そ、そう……。じゃあアンナ、むっ…昔みたいにため口で話すよ」

 やっぱり10歳……4月8日生まれなので後ちょっとで11歳も年上の、身内でもない人にため口を使うのはちょっと抵抗がある。ただ、本人がそうして欲しい、って言うなら仕方ないか。アンナは上機嫌になって、俺にハンバーガーセットをおごってくれた。2階の席に上がると、一緒の席で食べる。こんなの、いつぶりかな。


「ねえアンナ、『令和』ってどう思う?」

 俺が聞くと、アンナは不思議そうな顔をした。

「いきなり何を聞くの?」

「悪い、日本人じゃないアンナには関係無いよね。変な事聞いちゃった」

「いや、関係あるよ。日本で仕事している訳だし。また計算が面倒になるなって思うだけだな」

「節目、ってのあんまり気にしないか」

「でも何となくだけど『時代の空気』って言うのはある気がするんだよね。やっぱり今から新しい時代だ、って意識すると新しい事をやり始めたりするだろうし。多分、来年から本格的に『令和』の空気になるんじゃないかな」

「アンナはどんな時代になると思う?」

「さあね。一寸先は闇、父さんだって直前までソ連が無くなる事を信じていなかったし」

「ソ連が無くなって、その混乱でウクライナにいてもまともな仕事が無いからこっちに来たんでしょ?」

「そう。それが無かったら私達も出会わなかった。運命って分からないものだよね」

「兄さんと幼稚園で出会ったんでしょ。俺、その時生まれていないから」

「そうそう。雅人はあの頃から『俺、医者になる』って言っていたの。私はあの時……ケーキ屋とか言っていたな。今じゃ笑い話だ。彼は貫き通したんだからすごいよ」

「生きてりゃ医者になってた筈なのにな……。馬鹿で無能な俺が生き残って……」

「ごめん、触れちゃいけない事に触れちゃった?」

「あ、気にしなくて良いよ。ただ、兄さんと真っ向から向き合えなかったのが心残りで」

「過ぎた事は仕方ないよ。雅人の分まで、しっかり生きて」

「兄さんと違って医者になんかなれっこないけど。俺は将来……何が出来るんだろうな。何になれるんだろうな。あーあ、お先真っ暗」

「そんな事言わないで。これから見付ければ良いよ。まだ若いんだし」

「そんな事言われたって。もう燃え尽きちゃってやる気も何も無いんだ」

「そっか。今はゆっくり休んで。余裕が無ければ、将来の事だって考えられないし」

「分かった。今はゆっくり休んで、将来の事はそれから考えよう」

「それが良いよ。そうだ龍人、桜見に行かない?」

「ああ、桜か! 目黒めぐろ川に毎年家族と見に行ってたんだけどさ、今年は浪人のショックで行く気になれなかったから……」

「そういう時こそ行こうよ。良い気晴らしになるよ」

 昼食を終えたら店を出て、一応母さんにLINEで『アンナさんと花見に行く』と報告し、玉川たまがわ通り沿いを渋谷方向まで歩いて行った。途中の信号で止まる所でスマホを確認すると、母さんから『分かった』という冷淡れいたんな返事。10分弱くらい歩くと、そこは多摩川たまがわ沿いの遊歩道。川を挟んだ両脇には、桜の木が整然と植樹されている。ここは全国的にも有名な桜の名所、沢山の人で賑わう。


「見て、龍人。綺麗だよ!!」

 川沿いに広がるのは満開の桜。多くの見物客で混雑しており、うるさいくらい賑わっている。薄紅色の花びらが舞い散り、目を楽しませてくれる。ああ、8年前も同じように咲いていたな。兄さんが死んで、心にポッカリ穴が空いていた時。俺の心を癒やしてくれたのがこの桜だった。得体の知れない感情がこみ上げてくる。

「後何回この景色、見られるんだろうな。見られる内に楽しんでおきたいな」

「ちょっと、まだまだ若いのにそんな年寄りみたいな事を」

「ごめん。兄さんの事とか考えるとつい悲観的になっちゃってさ。ここをまっすぐ抜けると中目黒だね。行こっか」

 俺はアンナと一緒に川沿いを歩いた。見渡す限りの満開の桜。時々立ち止まっては、スマホで写真を撮る。川に架かる小さな橋に差し掛かると、アンナは俺と桜を一緒に撮りたいと言ってきた。俺はそれに応え、橋の縁の歩道に立った。アンナは車道――と言っても一車線で車もあんまり走らない――を挟んだ向かい側の歩道から、両岸に咲く桜と川に浮く花びらを背景にスマホを構える。

「はい、チーズ」

 アンナが声がけをすると、シャッターの音が鳴った。アンナはLINEで、撮った写真を俺に送ってくれた。中々格好良く撮れているな。

「じゃあ今度は俺がアンナの写真を撮ってあげよう」

 俺とアンナは場所を交代し、反対側からシャッターを切る。

「はい、チーズ」

 スラッとして背の高いシルエットが満開の桜に映える。綺麗な人だとは昔から思っていたが、ここ最近、30歳近くになって綺麗さに磨きがかかったような気がする。俺はアンナに、LINEで写真を送った。

「ありがとう。でも、2人で一緒に映れないのが寂しいね」

 アンナは出来上がった2枚の写真を見て言う。

「だけど他人にスマホ預けるのは嫌でしょ」

「そりゃそう。ルカに頼めばこれくらい合成してくれるよ」

 そうだ、ITに詳しいルカならこれくらいフォトショで加工できるな。

「じゃあ送るか」

「ルカは今、仕事だから。迷惑にならないように、夕方になったら送って」

「仕事終わってから読むでしょ」

「駄目だよ、ルカなら仕事サボってやっちゃうよ」

「えーっ?」

「ルカってそういう所があるから。私からルカに頼んでおくよ。きっと綺麗に仕上げてくれるよ」

「ありがとう。」

 写真を撮り終えたら、俺はアンナと一緒に歩いた先にある駅、中目黒を目指してゆっくり歩いた。年齢も性別も様々、外国からの観光客もちらほら見かける。名所だけあって混んでいるから、アンナとはぐれないか心配だなと、気にかけていたら……恥ずかしい事実に気付いてしまった。

「うわっ、ア、アンナ……」

 俺は慌てて手を離した。気付かぬ内に、俺はアンナと手を繋いでいた。

「なっ、何? いきなり?」

「お、俺達、手を繋いじゃってたよ!!」

「ええっ? おかしいの?」

「これじゃあまるで……カップルみたいじゃないか」

「カップル……あ、違ったか。ごめん」

「何ボケてるの? 困るよ」

「まあ、君ももう18歳なんだし……」

「何が言いたいの?」

「えーっと、クレカでも作ったら?」

「クレカは無理だなぁ。だって、審査が通らない」

「ま、まあデビットなら行けるでしょ」

「というかクレカの話なんて全然してなかったのに。何で突然言い出したの?」

「アハハ、それは……まあ行こう」

「何が言いたかったんだ……」

 何を考えているのだろう、この人は。歩いている途中、飲み物を売っている屋台があったので、そこで俺はコーラ、アンナはビールを買った。そういえばアンナ、酒癖悪いんだよな。プラスチックのコップに入った300mlくらいのビールを、一気に飲み干してしまった。

「はーっ、やっぱ最高」

 顔色一つ変えず飲み干すその姿は狂気すら覚える。

「そんなに飲んで、肝臓やられない?」

「高三から飲んでて、一度も壊した事無いから平気!」

「ちょっと待って、それ犯罪じゃ……」

「日本では飲んでないよ。帰省中に飲んだね」

「ああ、ウクライナでは18歳なのか」

「そう。先生に言ったら怒られたな」

「当たり前でしょうが」

「違法な事じゃないのに……」

「そういう問題じゃないと思うけど」

「まあまあ。龍人も、私と一緒に行って飲まない?」

「ウクライナに? わざわざ飲む為に行くの?」

「じゃなくても良いけど」

「ロシアに?」

「ロシアはなぁ。ちょっとウクライナのパスポート見せると、入国の時に嫌な顔されるんだよね」

「何で?」

「色々あって、最近はあんまり関係が良くないから」

「ああ、なるほど。まあ日本も最近は韓国と……」

「そんなレベルじゃないって」

「そんな悪いんか」

「まあでも、ロシア語も通じるし。あくまで国と国の関係が悪いだけだよ」

「通じるって言うか、アンナ達、ウクライナ人なのにロシア語が話せてウクライナ語が話せないってのが意味分かんない。先祖はロシア人って聞いたけどさ」

「ウクライナ語は田舎の言葉だから、都会だとロシア語が中心なの。西の方だと違うって聞くけど」

「へえ、そうなんだ」

「それ以外にもロシア語の混じったウクライナ語ってのもあって、色々とややこしいんだよね」

「なるほど……。よく分かんないな」

「とりあえず都会ではロシア語、田舎ではウクライナ語が中心って覚えておけば良いよ」

「分かった。覚えておこう」

 桜並木を歩いていたら、気がつけば大きな高架橋と、円筒えんとう形のタワーマンションが見えた。ここは中目黒、駅には東横線と日比谷線が乗り入れる。スマホで高架橋に進入する電車を背景に、桜が映えて電車がボケるように写真をパシャり。これは最近流行の、インスタ映えだな。やってないけど。

「アハハ、ピントがズレてるぅ」

 写真を見たアンナが楽しそうに笑った。写真を見たら……ああっ!

「電車にピントが合ってるな。やっちまった……」

「まあ、また撮り直せば」

「混んでてもう立ち止まれないよ」

「確かに、すごい混んでるね。また来れば良いよ、桜はまだまだ咲いている。君は暇なんだし」

「確かに暇だな、無職だから……」

「あ、浪人生、だよね。暇じゃないよね?」

「暇だよ。俺が大学を目指そうとしていたのって、結局……『大卒』って学歴が欲しかっただけさ。学びたい事が特にあった訳じゃない、兄さんと違って。義務教育じゃないんだ、なら行く必要って……と考えてしまって」

「ゆっくり見つければ良いよ。来年はオリンピックもあって、景気も多分良くなるから、いっそそこで仕事始めちゃっても良いんじゃないかな?」

「確かになぁ。ま、ゆっくりじっくり、考えて行くか。俺は若い、時間は俺の味方だ」

 東京有数の名所である桜並木も見終えた事だ。俺はアンナと一緒に、中目黒駅に入り、階段を上ってホームに上がった。右手には日比谷線、左手には東横線。俺達が乗るのは左手の東横線、渋谷方面。桜のシーズンだけあって混んではいるが、一本見送る程ではなさそうだ。次の列車は特急、飯能はんのう行き。随分と遠い所に行くようだが、渋谷にはどっちにしろ停まる。渋谷で乗り換えるから、どの列車に乗っても問題ない。

「覚えてる? 昔は東横線と日比谷線を直通する列車があったの」

 電車を待っている中、アンナが言った。

「覚えてるも何も。知らなかったよ」

「知らなかったの?」

「そもそも、どうやって直通するの? 日比谷線、渋谷通らないじゃん」

「この中目黒から直通したの。あっちの、横浜の方から」

「うーん、想像もつかないな」

「私は乗った事あるよ。武蔵小杉むさしこすぎの友達の家で飲んだ帰り、酔って気付いたら南千住にいた」

「自慢げに言う事じゃないでしょ」

「直通列車が無くなったの、6年前なんだけど、もうあった事すら知らない世代が出てくるなんてね」

「言い方が大袈裟おおげさだな。そういうものだよ、何事も。無くなったら忘れ去られる、その歳月は6年もあれば十分って事でしょ」

「そっか。雅人も……」

「やめて! 夢に出る!」

「…………来たよ、乗ろう」

 東横線の特急に乗った。颯爽さっそうと駆け抜けるこの列車、あっと言う間に渋谷に着く。東横線の渋谷駅は地下にあって、階段を上がればすぐそこに三軒茶屋を通る田園都市線のホームがある。来たのは急行、中央林間行き。これに乗れば一瞬で三軒茶屋に着く。


「綺麗だったね、桜。来年もまた行きたいな」

 列車に揺られながら俺が言うと、アンナも頷く。列車が三軒茶屋に着くと、俺とアンナはマンションへ行った。同じマンションに住むから、エレベーターで途中までは一緒だ。

「じゃあね」

 アンナは降りる。

「またね」

 アンナが降りたら、俺はそのまま乗って最上階へ。俺は自分の住む場所に戻った。

「ただいま」

 俺が戻ると、父さんは既に起きていて、母さんと一緒にテレビで令和特集を見ていた。

「龍人か、アンナちゃんと花見行ったんだって?」

 父さんが聞いてきた。

「そう。綺麗だったよ、桜」

「俺も行こうかな。」

 何も考えてねえな、この人は。流石は俺の父親だ。俺は寝室に戻って、スマホの充電が大分減っていたから机の上にある充電器に差し込み、ベッドに寝転がってSwitchの携帯モードでゲームをする。こんな単調な生活を繰り返す日々が続いていくんだろうな。恐らく、それは時代を跨いだって変わらない。新しい時代に、何も進化していない俺。平成最後の1ヶ月は、無意味に過ごす事になりそうだ。

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