第38話 全てのはじまり
「……実は、結婚したいと思っている人がいるんだ」
と、言いづらそうに口ごもりながら目の前の彼は言葉を放った。お得意の仏頂面は崩さぬままに、彼はどこか照れくさそうに机の上に置かれたアイスティーのストローをいじっている。
そして、そんな彼の正面でもう一人の男はその言葉を必死に咀嚼していた。
「治彦様に……、結婚したい人、ですか? ……詐欺にあっているとかではなく?」
「おい、なんて言った今。……本当にお前は失礼なやつだな。俺のことをなんだと思ってるんだ」
治彦が半眼で睨みつけるのは、影吉敬吾だ。十八年前の秋。大切な話があるから少し時間をもらいたい、という治彦の要望に答えた敬吾は、治彦の私室に足を運んでいた。
そして、開口一番に彼が述べたのが先の言葉だった。治彦が生まれてから共に過ごすこと二十年近く。今まで女性関係に興味の欠片もなかった彼から告げられた恋愛相談に、敬吾は自身の耳を疑った。まさかこの朴念仁が、と治彦の告白の衝撃におもわず視線をずらせば、治彦のベッドの上ではまだ二歳の依月が、何も知らないままにひとりすやすやと寝息を立てている。
「まぁそんな冗談は置いておいて……、あなたがそんなにも好きになった人って誰なんです? このあいだの縁談相手……、では無いですよね」
どこの家の方ですか、と敬吾が問えば、治彦は気まずそうに視線を逸らす。
「……いや彼女は、どこかの名家出身……という訳ではない」
「それは……、なるほど。それで? お相手とはどこで出会ったんですか?」
治彦の言葉に敬吾が軽く頷き質問を重ねれば、彼は驚いたように目を見張った。
「……敬吾は、反対しないのか?」
治彦の返答に、今度は敬吾が目を瞬かせる。なるほど、この様子を見るに彼は既に一度反対された後なのだろう。
「反対しないのか、と問われても……、私はただの使用人ですし。そもそも反対のしようがないでしょう?」
「それは……、そうだが」
求めていた返答じゃない、と言いたげな治彦に、敬吾はそのまま言葉を放つ。
「というか、そんなの悩むようなことじゃないと思いますよ。……今の時代、結婚が会社の存続のために不可欠だって訳じゃないでしょうし」
自身の言葉に一種の苦さを感じつつ、敬吾はさらに言葉を続けた。
「それに、反対するような奴らなんて実力で黙らせてやればいいじゃないですか。誰かのために努力することは、あなたの得意分野でしょう?」
「……ははっ、何だそれ。解決策になってるか?」
敬吾の言葉に呆れたように笑う治彦は、それでもどこか重荷が下りたような表情で相談を続ける。何故自分に相談したのか、と敬吾が問えば治彦は、お前は一応結婚もしたことがあるのだし俺よりは頼りになるだろうと思った、と言葉を返す。
「……私が結婚したことがあるといってもお見合い結婚でしたし、役に立つとは思えませんけどね。それに、……上手くいかなくて別れることになったんですし」
「まぁそれはそうだが。とはいえ俺よりは経験があるだろう? まぁお前の欠点は反面教師にすればいいだろうし……。俺は持ちかけられた縁談を断った経験しかないからな」
きっぱりと言い切る治彦に、敬吾はおもわず苦笑する。敬吾が結婚したのは四年前、敬吾が二十二歳だった頃だ。ただし、実際に結婚こそしたものの、そこに恋愛感情があったかと問われると首を横に振る他ない。
敬吾にとって結婚は一種の義務であり、単に子を残すために必要なものに過ぎなかった。そして、表面上は取り繕っていたつもりでも、その歪みはどこかで滲み出ていたのだろう。依月が生まれて間もなく、彼女は離婚届と一枚の「私はあなたが分からない」という書き置きを残して家を去っていった。
元妻の生家からは謝罪といくらかの金子を受け取ったものの、その状況であっても微塵も動かない感情に、敬吾自身も自らの薄情さに内心うんざりとしたものだ。
そんな自分に恋愛相談をするなんて治彦は本当に見る目がない、と呆れながらも敬吾は彼の相談に細かに応えた。
頬をわずかに紅潮させながら心を寄せる相手について語る治彦は、どこか年下らしいかわいげを見せていて、その素直さをほほえましく思う。
というのも、敬吾にとって治彦は、仕えるべき相手でありながら弟のような存在だったのだ。
少し融通が聞かないところや無愛想すぎるきらいはあるものの、一之瀬家という重圧の中でも努力を欠かさず、跡取りとしての義務を果たそうとする治彦は敬吾にとっても誇らしい存在であり、そして。
――この世で最も妬ましい存在だった。
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