第30話 わたくしだけの言葉であなたに

 中庭へと続く扉を、音を立てないようにそっと開く。青々と葉を揺らす木々の隙間から、橙色の木漏れ日が柔らかく地面に落ちる。庭師の芝原によって整えられた中庭では、初夏の花が風に揺れていた。


 そして、そんな中庭の隅に彼はいた。こちらに背を向けた彼は、一定のリズムで箒を動かし続けている。


 彼の背中を見ながら、先ほどのアルマと交わした言葉を思い出す。


 ◇◇◇


「アルマさん。わたくし……、影吉に全て話そうと思いますの」

「……お嬢サマそれ、マジで言ってんのか?」


 そう囁いた純蓮の言葉に、彼はまるで理解できないという驚愕の表情を浮かべる。それでも純蓮は言葉を続けた。


「……はい、本気ですわ。確かに勝算は低いかもしれませんがわたくしは……、もう一度影吉のことを信じてみたい、のです」


 発信機まで取り付けるような彼を信じるだなんて、もしかしたらおかしいことなのかもしれない。だがたとえそうであっても、彼と過ごしたこれまでの日々を信じてみたいと、そう思ったのだ。


「……そうだな。お嬢サマがそうすべきだと思ったんならそれで行こうぜ」


 彼は困った子どもを見るような表情で笑ってみせた。ただ、純蓮の意思を尊重してくれたという事実が、何よりも純蓮の胸を温かくさせる。彼の言葉に、純蓮はふわりと破顔する。


「……ありがとうございます。アルマさん」


 ◇◇◇

 

 目の前の彼を見据えて、すぅと深く息を吸い込む。震える手を力強く握りしめ、彼女は彼の背中へと声を放った。


「……影吉!」

「お嬢、様……?」


 彼は驚いたように目を見張り、こちらへ振り向く。しかしすぐにその表情は平静を取り戻し、彼の瞳は風のない水面のように凪いでしまう。


「このような所へ来るなんて……、なにか御用でしょうか?」


 その冷ややかな声は、まるで純蓮との対話を拒絶しているかのようだった。今までの純蓮なら躊躇い、引き下がっていたかもしれない。

 だが、


『お嬢サマの力が必要だ』

『だから、大丈夫ですよ。……ずっと見てきた俺が保証してるんです。きっと必ず仲直りできます』


 ――もう、今日の純蓮は今までとは違う。絶対に、ひとつだって引き下がってなどやるものか。


「わたくしは……、あなたとお話をしに来たのです」


 目の前に立つ彼をまっすぐに見据える。彼の瞳は、動揺に揺れているような気がした。


「私と……、話を?」

「えぇ、そうですわ」


 怪訝そうに眉をひそめる彼に向かって、純蓮は表情を整え、言葉を続ける。


「わたくし、一日中ずっとあなたのことを考えていましたの」

「……え?」


 ぎょっとしたように、彼は固まる。ただ、そんなことにも気付かないまま、純蓮は目を伏せぽつりぽつりと言葉を繋ぐ。

 

「そして、気が付きました。今までずっとわたくしは……、影吉に守られていたのですね」


 今までの純蓮は、自分を愛してくれている人などいない、と心を閉ざし続けてきた。だが、一度周りに目を向けてみれば影吉や香坂といった純蓮を見守り続けてくれていた人たちがそこにはいたのだ。


「影吉はいつも……、わたくしが危ない目に遭わないようにと、辛い思いをしないように、と考えてくれていたのでしょう? ……それはきっと、とても得難くて、かけがえのない優しさだと思うのです」


 きっと彼の優しさは、何も知らず暗闇の中で迷子になっている純蓮の手を取り、正しい方へと導いてくれるような優しさなのだろう。しかしそれは、彼の手が離れれば、また純蓮は暗闇の中に独りで取り残されてしまうということだ。

 純蓮が間違わないように、転ばないように、と先回りするのは確かに彼の優しさで、だがその優しさに甘えてしまえばきっと純蓮は前に進めない。


「わたくしは……、ただ一方的に正解を押し付けられて守られるより、ともに話し合って、正解を見つけていきたいのです。だって、その過程で傷付くことがあっても……、それはわたくしの決断ですもの」


 きっと灯りが欲しかった。揺るぎない出口ではなく、その出口を見つけるための灯りが欲しかった。ただ、足元をそっと照らしてくれるような小さな灯りを、二人で分け合えるだけでよかったのだ。


「わたくしがアルマさんといるのはわたくしの決断です。……あなたがわたくしのことを心配してくれているということは、ずっと昔から分かっています。それでも……、」


 純蓮はそっと視線を上げる。彼はただ、純蓮の言葉を静かに待ってくれていた。


「わたくしは、わたくしの決断を大切にしたい。そして……もう、あなたに守られるだけの存在ではいたくないのです」


 純蓮の長い髪が風に揺れる。彼にそろと視線を向ければ、彼は純蓮の言葉を噛み締めるように目を伏せていた。

 穏やかな風が頬を撫でる中庭で、どうかこの思いがあなたに伝わりますように、とそう願ったのだ。

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