第3話 日常と非日常の狭間にて

 降り注ぐ暖かな陽光が新たな一日の始まりを告げる、そんな穏やかな金曜日の朝だった。とはいうものの、純蓮の心中は全くといっていいほど穏やかではないのだが。


 はぁと小さく息を吐くと、純蓮は柔らかな背もたれへと背を預けた。


「うぅ……。どうしてあんなことになりましたの……」

「……お嬢様、なにか悩みごとでも?」


 前の座席から投げかけられた声に、はっと純蓮は姿勢を正す。ここは通学中の送迎車の中。

 純蓮へ声をかけたのは、車の運転をしている一之瀬家の使用人、影吉依月かげよしいつきだ。ルームミラー越しに純蓮の様子を伺う、丁寧に撫で付けられた黒い髪と鋭く光る眼光が特徴的な彼は、珍しく眉を下げて心配そうな表情をしている。


「いえ、なんでもありませんわ!」


 にこりと純蓮が表情を取り繕うと、影吉は納得の行かなそうな声色で、そうですか、と言葉を返す。そんな影吉の対して少しの罪悪感に苛まれつつも、純蓮は笑顔を崩さない。


 ――だって、言えるはずありませんもの。


 純蓮の脳裏に浮かぶのは、昨日交わした契約だ。その契約の内容は、「純蓮の殺害」。そんな荒唐無稽な、純蓮でさえ未だ現実かどうか疑わしい内容を、まさか影吉に伝えられるはずがない。


 ――それにしても、アルマさんは一週間の調査期間がある、とおっしゃっていましたけど、調査とはどのようなことをするのでしょうか。


 そんなことを考えているうちに、車は緩やかにそのスピードを落としていく。車窓から見えるのは、純蓮にとってよく見慣れた紫峰学園の外門だ。


「どうぞお嬢様。到着いたしましたよ」

「ありがとう、影吉」


 停車した車から降り、影吉は後部座席のドアを開ける。差し出された影吉の手を自然にとりながら、純蓮はそっと地面に降り立ったのだ。



 ◇◇◇



 ごきげんよう、という挨拶が至るところで交わされている廊下を、純蓮は一人歩いていく。いつも通りの授業を終え、中庭で昼食をとり、午後の授業を終えると、影吉が運転する車で屋敷へ帰る。


 そんな、いつもとなんら変わりのない平凡な一日、のはずだった。


「なぁ、なんでアンタって今日一日ずっと一人だったの?」

「きゃあああっ!?」


 風呂からあがって身支度を整え、来週の授業の予習をしようと机に向かった純蓮の背後から、聞き覚えのある声が降ってくる。

 反射的に純蓮が声をあげると、彼は背後から勢いよく純蓮の口をふさいだ。


「ちょ、静かにしろって! 家のやつにバレたら面倒なことになるだろ!?」


 純蓮を射貫いた真っ赤な瞳。そのすらりとした体躯を包むのは、ワイシャツにスーツベストといういかにも店員らしい服装だ。喫茶ルミナリクの店員、アルマの姿を認めると、純蓮は無言のままでこくこくと頷く。その反応に安心したように、アルマはそっと手を離した。

  

「ア、アルマさん。……どうしてこんなところにいるのですか!? わたくし家の住所なんて教えておりませんわよね!?」

「はぁ? そんなん調べたからに決まってんだろ? 今日から調査期間ってことで、軽く調査も終わったし、経過でも伝えようかと思って」


 何を当たり前のことを、とでも言うかのようなアルマの態度に、おもわず純蓮は言葉を失う。いや、どう考えたって私室にいつの間にか侵入しているのは異常事態のはずなのだが。


「だいたい……、どうやってこの部屋に入ってきたのですか? ここは屋敷の二階なのですよ!?」

「いや、そんなん窓から入ったに決まってんだろ」


 まさかそんな常識外れなことがあるだろうか、と頭に疑問符を浮かべつつ、彼は殺し屋なのだからそういうこともあるのだろうと、すぐに理解することを放棄する。きっと殺し屋というものは常識があっては成り立たない職なのだ。


 そんなことを考えている純蓮の内心も知らぬまま、アルマはホチキスで留められた数枚の紙の資料をすっと懐から取りだした。


「んで、まぁこれがとりあえずの調査結果な」


 差し出された資料を受け取り、ペらと一枚紙を捲る。その資料に目を通すと、純蓮はおもわず目を瞬かせた。

 

「えーとまず、アンタは紫峰学園に通う、一之瀬純蓮。紫峰学園っていったら、お偉いさんの娘なんかも大勢通ってるってので有名なガッコーだからアンタもそうなのかと思ったら……、アンタの親って『イチノセ海運』の取締役なのな。そりゃこんなでけー家に住めるわけだ」


 窓枠に腰を掛けながら、彼は言う。


 アルマの言う通り、純蓮が通う紫峰学園は国内でも有数の名門私立であり、政界の重鎮の孫娘や社長令嬢が在籍していることも珍しくはない。そして、一之瀬家もまた曽祖父の代から続く「イチノセ海運」を中心としたイチノセグループを経営しているのだ。


「……こ、これをたった一日で調べあげたのですか?」


 戸惑ったように、純蓮は尋ねる。


 純蓮の目に映る資料には、純蓮の大まかなプロフィールや在籍している学園の情報だけでなく、今日の純蓮の行動までもが書き留められていた。

 調査とはいうものの、この短い時間でここまで調べあげられるものなのか、とおもわず純蓮は閉口してしまう。


「まーな。てなわけで今日一日アンタのこと見てたんだけど……、」


 そこまでを言うと、アルマは心底不思議そうに首を捻る。


「なんでアンタってガッコーにいるときずっと一人だったの?」


 そのとき純蓮は、自分の心にぴしりとひびが入る音を確かに聞いた。

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