第10話 消えゆく友の背中
夜の研究室には、冷たい静けさが満ちていた。
簡易ベッドの上に横たわる綾城遼一の身体は、ほとんど動かず、わずかに胸が上下するだけだった。
その枕元には、氷室志保がつきっきりで座っていた。
ベッドのそばには冷却シートと水分補給のためのスポーツドリンク、
汗を拭うためのタオルが整然と並べられている。
綾城の顔は、普段の凛とした表情からは想像できないほど青白く、細い指先には、力がほとんど残っていなかった。
志保は、そっとタオルを手に取り、額に滲んだ汗を丁寧に拭った。
ふと指先が、彼の手に触れる。
冷たく、しかし確かな温もりが、そこにあった。
志保は唇を噛み、俯いた。
これほどまでに痩せ細った姿を目の当たりにして、胸が締め付けられる。
―― どうして……こんなに……
この世界が壊れかけてもなお、誰よりも前に立ち、誰よりも傷つく人。
その背を、誰もが頼りにしながら、誰も止めることができなかった。
志保は、震える指先で、もう一度綾城の手をそっと包み込んだ。
守りたいと願った。
たとえ、どんな絶望に囲まれても。
***
静かな気配に気づき、志保は顔を上げた。
研究室の入口に、真木理央が立っていた。
彼は何も言わなかった。
ただ、静かに志保と綾城を見つめ、目だけで、すべてを理解していると伝えた。
志保もまた、何も言わずにうなずいた。
言葉は不要だった。
同じ祈りを胸に、同じ思いでここにいる。
それだけで十分だった。
理央は、音を立てないように歩み寄ると、少し離れた場所に腰を下ろし、しばらく綾城の顔を見てから去って行った。
***
かすかに、綾城のまぶたが震えた。
そして、意識は戻らないまま、ふと、綾城の唇が微かに動いた。
「……志保……」
声にならない囁きだった。
志保は思わず顔を近づけた。
そして、かすかに漏れた彼の言葉を聞き取った。
「……やっぱり……痩せたね……」
場違いな、冗談のような言葉が繰り返された。
けれど、それは紛れもなく、綾城らしい優しさだった。
志保は、一瞬、呆気に取られた。
そして次の瞬間、安堵の余り溢れてきた涙を堪えきれず、泣きながら、笑った。嗚咽まじりの笑い声が、静まり返った研究室に小さく響いた。
***
夜の研究棟を出た理央は、ひとり暗がりに立っていた。風もなく、木々は微かに軋みを立てるだけ。まるで誰かを待っているかのように、彼は動かなかった。
やがて、闇の中から北条が現れた。
双眸はくぼみ、頬はこけ、痩せた身体は幽鬼のようだ。かつて見た面影はそこになく、ただただ、抜け殻のような姿がそこにあった。
「……世界には、もはや光が必要だ」
低く、かすれた声で北条が告げた。
「お前は早く、その男から離れろ。そして姉上の元に戻り、再び一体と成れ」
それは北条の声ではなかった。素戔嗚——あの荒ぶる神の意志だった。
そのとき、理央の中で、別の力が目覚めた。
瀬織津姫。
彼女は理央の口を借り、静かに語り始めた。
「太古の昔、まだ天と地が溶け合っていた混沌の時代、天照大神は、世界を照らすために生まれた。その光はあまりにも強大で、ただ照らすだけでなく、人の心の中の不安や怯えを解消し、憂鬱な影を消し、すべてを純白の無に還してしまった」
素戔嗚は腕を組んで、理央の口を借りて語る瀬織津姫の言葉に耳を傾けた。
「しかし、人は心に生まれる負の部分を、自らの力で解決しなくていい代わりに、成長と発展する力を失ってしまった。そして人間はだんだんと個による違いが無くしていき、様々な変化に対応する多様性を失ない始めた」
理央の意識は瀬織津姫の言葉を聞いて驚いた。自分たち一人ひとりが、悩みや心配を持たぬ世界。悩みや心配は確かに心の負担だが、それを乗り越えることにより、人は進化を遂げてきた。困難な問題にも、それぞれが違ったアプローチを試み、誰かが正解にたどり着く。それこそ人間の本質と信じていた。
しかし……。
「天照大神はこの事態を危ぶみ、自分の中に宿る”過剰な浄化の力”を制御し、別の存在に託すことを決断した。そのとき生まれたのが私だ。だから戻るわけにはいかぬ」
理央の声に、清冽な響きが宿っていた。
ここで、黙って聞いていた素戔嗚が初めて口を開いた。
「その結果、様々な言霊が人間より発せられ、父母が作りし大地を穢れで覆った。人がどうなろうと我はもうどうでもいい。お主が戻らぬのであれば、害為す者を俺は殺し尽くす」
「ならば……私は、お前と戦う」
理央が答えた刹那、彼の両脇に、ふたつの影が現れた。タケミカヅチ、そして為朝。
剣を構え、弓を引き絞る二柱の神威が、闇を裂いた。
それを見て、素戔嗚は嗤った。
「この国の全ての武神は我より生まれ、我の力の一部をもらったに過ぎぬ。それが束に成っても、我を止められると思うか」
言葉の終わりに、北条の背から、怒涛のような力が渦を巻いて吹き上がる。大地すら震えるような圧倒的な存在感。
神々が、いまにも激突する、その瞬間だった。
「待って!」
澄んだ声が夜を裂いた。
駆け寄ってきたのは、久遠柚季だった。彼女は迷いなく、二者の間に割って入った。
「素戔嗚……あなたのこと、調べたわ」
柚季の声は、優しく、強かった。
「本当は、寂しいんでしょう。あなたは母を想い、父に逆らい、高天原を追放された。地上に降りて、
「黙れ!」
素戔嗚の怒号が夜に響く。
その声は周囲の空間を歪め、大地を震わした。
理央は危うくバランスを崩しそうになったが、柚季はしっかりと二本の足で大地を踏みしめていた。
「いいえ。あなたは再び訪れた孤独の中で、姉神である天照の地上への降臨を願った。それは寂しさを、癒してほしかっただけ」
「黙れ、黙れ! 今すぐ八岐大蛇に命じて、この地に住む人間を全て跡形も無く滅ぼしてくれる!」
素戔嗚の怒りが天を震わせた。
だが、柚季は微笑んだ。
「なら、私が……奇稲田姫の代わりになります」
素戔嗚の手が止まった。動揺した表情でしげしげと柚季を見る。
「お前が? 何を言う……! お前も時が経てばやがて死を迎える人間ではないか」
「私は死にません。……見てください」
柚季は、ポケットから小さな包みを取り出した。そこには、赤黒く艶めく肉片があった。
「これは人魚の肉の一部。今からこれを食べて、私はあなたと同じ時間を生きる存在に成ります」
「やめろ!」
理央が絶叫した。
しかし、その声と同時に、柚季は肉を口に入れた。数瞬、彼女は地に倒れ、苦悶に身をよじった。だがやがて、静かに立ち上がった。
その肌は、夜の光を受けてなお透き通るように白く、まるで雪の結晶が結ばれたかのような繊細さを宿していた。深い瑠璃色の瞳は、ただ美しいだけでなく、どこか人ならぬ妖艶な輝きをたたえ、見る者の心を攫う。唇はほのかに紅を含み、微笑みの奥には、決して届かぬ儚さが滲んでいた。
人でもなく、神でもない、ただひとつの存在。久遠柚季は、もう二度と誰の手にも戻らないところへ行ってしまったのだと、理央は直感した。
変貌した柚季を見て、素戔嗚の目が輝いた。
「……美しい」
彼は手を伸ばした。
「お前が我に、永遠の愛を誓うならば、我は破壊をやめよう」
柚季は、こくんと小さく頷いた。その仕草は、まるで一輪の花が静かに夜露を受け止めるような慎ましさをたたえながらも、男の心をふと夢見心地にさせる妖しい魅力を秘めていた。光を纏うように、その細やかな動きすらも艶めいて見えた。
そして、理央は絶句し、声を失った。
柚季は、微笑みながら振り返った。
「理央、あなたのこと、好きだったよ。いつかあなたと結ばれて、二人でフィールドワークする日を夢見てた。でも……これで私は幸せ」
その言葉を最後に、柚季は素戔嗚と共に闇の中へと消えていった。
遠ざかる柚季の背を見つめながら、理央の胸に、ふいに鮮やかな記憶が甦った。
笑いながら並んで歩いた帰り道、何気ない冗談に肩を寄せて笑った瞬間、研究室の片隅で交わした、ささやかな会話の一つ一つ。
あの柔らかな声も、陽だまりのような微笑みも、今はもう、手の届かない場所へ消えようとしている。
闇に溶けていく柚季の姿は、どこまでも美しく、そして痛ましかった。
その場には、膝をつき、顔を覆い、嗚咽を漏らす理央だけが残された。
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