第4話 裁きの弾丸
―― 証拠がないだけで、無実とは限らない。
北条
だが、今の若い連中は違う。証拠、証拠、証拠と念仏のように唱え、目の前の匂いを嗅ぎ分ける嗅覚すら持たぬ。特に今回の事件、明峰大学の文化祭で起きた惨劇を、まるで事故や神話扱いしている連中には虫酸が走った。
―― あの目は、何かを知っている。
あの若者、真木理央。澪という少女が口から杭で貫かれ、モニターに磔にされたその場に居合わせたただひとりの関係者。偶然すぎる。冷静すぎる。
いくら証拠がないからといって、あの冷めた目を無視できるか?
「奴が犯人です。何か、異常な力を使ってでも……あれは人間の仕業じゃない。だが、奴は確実に関与してる」
そんな言葉を、会議で吐いた時の同僚たちの嘲笑は、今も耳に残る。
***
釈放された理央の背中を、北条はつけ狙うように追っていた。
アパート、大学構内、バス停、研究室――どこにいても、理央の動きが網にかかるよう、張り巡らせたネットワークを駆使した。
そんなある晩、彼は理央の写真とともに、こうツイートした。
『明峰大学の事件、警察は意外な人物を任意同行中。詳しくは後ほど』
『文化祭に潜む呪いの使徒 ネットの声が真相を暴く』
ハンドルネームはもちろん偽名。アイコンは風景写真。
こうして空気を作るのだ。証拠など要らない。世論が追いつめれば、それが真実になる。自分は何度もそうしてきた。被害者遺族の涙を糧に、数人の真犯人を引きずり出してきた。はずだった。
だが、真木理央は、違った。
ネット上で炎上し始め、SNSでは理央を名指しする投稿が相次ぐ。だが、彼は怯えなかった。
学内に戻ってきても、堂々と研究室に顔を出し、綾城の隣に立ち、学生たちに挨拶をする。
その姿が、北条の神経を逆なでする。
「……どこまでシラを切る気だ……」
怒りを抑えきれず、北条はついに罠を仕掛けることを決めた。
理央のアパート近くに盗聴器を仕込み、行動パターンを探る。匿名の垢から更なる誹謗を流し、奴を引きずり出す。
完璧な布陣。何もかもが、自分の掌の上にあるはずだった。
しかしその夜、北条は見てしまった。
黒い影が、路地裏に佇んでいた。病的に痩せた体、虚ろな目、皮膚を通して骨格が透けて見えるような影の男。
磐城――そう、あの監視カメラが捉えていた、澪の殺害時に研究棟の向かいにいた容疑者。
あんな距離から杭を打ち込むのは不可能だと判断したのは、自分だった。
だからこそ、理央を狙ったのだ。
だが今、目の前にそれはいる。
北条の背中が凍りついた。磐城の目が合った瞬間、肺の中の空気が凍りついたかのように、体が動かなかった。
足元の影がざわりと蠢く。風もないのに、落ち葉が渦を巻いて飛ぶ。
逃げなければ。
北条の足が動かない。銃を構えたまま凍りついたようにその場に立ち尽くす。
磐城は、笑っていた。口角だけをゆっくりと釣り上げるその表情は、狂気ではない。むしろ、断罪者の静謐に満ちていた。
やせ衰えた喉から、乾いた声が漏れる。だが、その声は確かに、北条の耳の奥へと直接届いた。
「――自覚なき者よ」
磐城の眼差しは、空虚を通して、確実に北条だけを射抜いていた。
「貴様は、自分の指先がどれだけの血を呼ぶかも知らずに、言葉を流す。真実を捻じ曲げ、誰かを殺すために世を煽る。他人の怒りを正義に偽装し、それを燃料にまた新たな地獄を育てる。
私はこの世で、そういう人間を、心の底から憎む」
風が強まる。杭が生まれる音が、空気の裂け目から滲み出す。
「貴様には、死を持って、その言葉の代償を支払わせる」
その瞬間、影が膨れ上がる。
北条の目が見開かれ、体が震える。
「やめろッ!!」
叫んだのは、理央だった。
警察車両のサイレンが割って入る。周囲を囲む数人の刑事たち。
理央は予見していたのだ。この因縁を。あのとき磐城と目を合わせてしまった瞬間から、彼の中に何かが繋がっていた。
磐城の足元が割れる。影が波紋のように広がる。
北条は、ついに引き金を引いた。
背後からの号令も待たず、ただ恐怖に駆られて。
銃声。火花。磐城の額が裂けた。
何かが空気中に崩れ落ちる音がした。
あまりにあっけなく、男の体が崩れ、杭も、影も、ただの風に溶けた。
こうして、警察は公式に連続殺人事件の解決を発表した。
磐城忍、元明峰大学講師。動機不明の連続殺人犯。精神を病み、異常な妄想にとりつかれ、十九人を殺害――と。
それを信じた者たちにとって、真実は終わった。
だが、理央の目は、まだ終わりを見ていなかった。
大いなる狂気の気配は、まだ風の中に、残っていた。
***
大学の研究室に戻った理央は、ドアを開けた瞬間、部屋の中に誰かがいることを直感した。
灯りの落とされた部屋。
机の奥――そこに、綾城が座っていた。
その姿を見ただけで、緊張で乾ききっていた理央の心に、わずかな水音が戻る。
「……先生」
理央は、静かに言葉を落とす。
「これで、本当に……終わったんですか?」
長い沈黙。
だが綾城は、その問いには答えなかった。
代わりに、すっと立ち上がると、無言のまま理央の前に歩み寄り――
その身体を、そっと抱きしめた。
理央の目が、わずかに見開かれる。
戸惑い。
困惑。
そして、なぜだろう――少しだけ、安堵。
綾城の腕は決して強くなかった。ただそこにいる、という確かな実感だけが、理央の心の奥深くに届いた。
「……事件が終わったかどうかなんて、まだ分からない」
低く、穏やかな声が耳元でささやかれる。
「けれど、君の心の方が先だ。たくさんの言霊に晒されて、傷つきながら、それでも君は立っていた。まず癒すべきは、君のその痛みだ。理央」
その言葉が、胸の奥のなにかを切った。
ぴんと張っていた糸が、音もなく、ふと切れる。
崩れるように、理央は綾城の胸に顔をうずめた。
「……ひどいんだ、全部……! 俺、なにもしてないのに……」
涙が止まらなかった。
正義の仮面を被った悪意。証拠のない噂。知らない誰かの嘲笑。それらすべてが、自分の名前にまとわりつき、息ができなかった。
磐城を止めたことも、澪を救えなかったことも、正しいのか分からない。けれど、何かを守りたかった。
そのすべてが、綾城の腕の中で堰を切ったように溢れた。
そして、澪の最後の言葉が脳裏にこだまする。
『私でも……まだ……やり直せるかな』
やり直す間もなく、殺された少女。
彼女の瞳に宿っていた、誰かに救ってほしかったという願い。
理央の胸から零れ落ちた涙が、綾城の胸元を濡らす。
「澪さん……もう少しだったのに……っ」
嗚咽まじりに、名前を呼ぶ。
綾城は何も言わなかった。ただ、その体温を少しだけ強く重ねた。
その温もりの中で、理央はようやく、心の底から泣くことを許されたのだった。
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