第9話 決めるのは君だ
二子多摩川、静かな高級住宅街の一角。深い緑に囲まれた白崎邸は、静寂そのものだった。
理央と綾城がその門をくぐったとき、家の奥から風が吹き抜けた。まだまだ夏が続くと言わんばかりの湿り気を帯びた風。その風の奥に潜む、どこか不穏な気配に、理央は無意識に息を呑んだ。
チャイムを鳴らすと、ほどなくして美智が現れた。
艶やかな髪をひとつにまとめ、柔らかなベージュのワンピースに身を包んだ姿は、端整で落ち着いて見える。けれどその瞳の奥には、微細な狂気の波が確かに潜んでいた。
「まあ、先生……それに理央くん。どうぞお入りなさいな。蒼真は今日はちょっと出かけていて……」
促されるまま、リビングに通された二人。無垢材の床、整えられたインテリア。香る紅茶の匂い――だが、そこに在るべき“人のぬくもり”が、どこにもなかった。
綾城は、カップにも手をつけず、ゆっくりと口を開いた。
「この家に、穢れが巣食っている」
ピシリ、と空気が張り詰めた。
美智は一瞬だけ、目を細めたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「先生、穢れだなんて……うちは、何も……」
「この家の“庭”に、何かを埋めた痕がある。十八年前。深夜、誰にも見られないように」
美智の指先が、わずかに震えた。
「……あれは、ただの……古い木の根を処理しただけよ」
「白崎蒼真の本当の姿がそこにある」
綾城の言葉に、美智の笑みが崩れた。
美智の指が、テーブルの縁を掴んだ。震えていた。
その口元がわずかに引きつり、そして壊れたように笑う。
「そう。もう、隠しても無駄なのね……」
声は乾いていた。涙の出尽くした女の、終わりの音だった。
「……夫が、亡くなったのは蒼真が二才のときだった」
静かに語り出したその声は、どこか遠くを見ていた。
「癌だった。発覚からあっという間で……何もできなかった。彼の両親が残してくれた家と、援助と、そして蒼真だけが……私にとってのすべてになった」
その言葉に、理央は自然と背筋を正した。そこに込められた愛の重さが、すでに普通の域を超えていたことを、彼の異能の感覚が察知していた。
「……でも、神様は、もっと残酷だったのよ」
美智の声がわずかに震える。
「蒼真は、三歳になったばかりで……本当に、可愛くて。ある日、ちょっと目を離したほんの数分のことだったの。夕食の支度をしていて、静かだから寝たのかと思って……でも、お風呂場の扉が半開きで」
声が、ひときわ細くなる。
リビングの空気が凍りついた。
理央の胸が締め付けられる。美智の吐き出した言葉の重みが、空間ごと沈ませるようにのしかかる。
「……すぐ抱き上げて、心肺蘇生をした。でも、だめだった……。まだ、あんなに小さかったのに……!」
美智は、絞り出すように続ける。
「何度も何度も謝った。何度も“どうして”って叫んだ。誰も答えてくれなかった……横たわる蒼真は息をしてない」
そして、崩れ落ちるように膝をついた。
「夫の死から一年も経っていなかったのよ……。何もかもが、空っぽになって、もう、生きてる意味なんてなかった」
その声は、理央の心に重く落ちた。静かに、痛々しいほど真っすぐだった。
「そのあと、何も考えられなくなって、蒼真を置いたまま家を出た。いつの間にか渋谷の町を彷徨ってた。そして、地下通路で、迷子の子を見かけたの。誰も手を伸ばさなかった。私は、自然にその子の手を握ってたの。あの子は、私に『お母さんは?』って聞いてきた……!」
理央は息を止めた。
「違うって、分かってた。でも、でも、もう一度、蒼真に会えたって……神様がくれた奇跡だって、思ったの。だから……だから……私は、湊って名乗ったその子を……私の“蒼真”として、育てたのよ……!」
そこまで言ったとき、美智の声が割れた。嘆きと狂気の入り混じった嗚咽が、リビングの床を濡らしていく。
「本当の蒼真君はあの木の下に埋めたんですね。湊君を蒼真君にするために」
綾城の声に美智は微かに頷き、そして再び叫んだ。
「愛してたの。すべてをかけて。たとえ、罪だとしても……!」
その声は、神にも届かぬ母の絶叫だった。
けれど次の瞬間、
「……それでも、罪は消えない」
床に膝をつき、激しく嗚咽する美智の姿に、理央は言葉を失った。
だが、空気が変わった。
「でも、あの女が奪おうとするなら……私は許さない!」
美智が顔を上げたそのとき、瞳は赤黒く染まり、口元が裂けるように歪んだ。
「奪う者は、みな“滅び”なさい!!」
その叫びと共に、美智の身体から黒い煙のような穢れが噴き出した。部屋の温度が一気に下がる。窓ガラスがびしりと軋む。
理央の喉奥に、吐き気に似た気配が込み上げる。凍てつく憎悪と怨嗟の塊。
―― 来る!
美智の腕が異様に長く伸び、爪が鋭く変形しながら理央に向かって振り下ろされた。
「汚れは、清めねばならない」
その声は、理央のものではなかった。だが、確かに彼の唇が動いた。
空気が澄み、音が一瞬だけ止む。
理央の全身を光が包む。水のように揺らめきながら、白く、淡く、けれど絶対の力をもって。
「瀬織津姫……!」
綾城が名を呼ぶと同時に、光が広がり、美智の身体から黒く染まった“穢れ”が分離した。
それは、女の姿をした“夜叉”だった。
赤い眼。六本の腕。乳房をさらし、無数の子供の泣き声を引きずる影。鬼子母神の忿怒をそのまま形にしたかのような、禍々しい怨霊。
「……産み、育て、そして奪われた……すべてを呪って、私は母となった……!」
夜叉が咆哮する。空間が割れそうなほどの怒気。
「理央、下がってろ!」
綾城が一歩、前に出る。
「我が言霊は、菊理媛より授かりしもの」
右手を掲げ、言霊を放った瞬間、空気が変わる。部屋全体に透明な結界が張り巡らされる。
「すべての魂を、和へと導け——“繋ぎの神”よ、来たれ」
綾城の足元に、古代文字が浮かぶ。
夜叉が吼え、襲いかかろうとしたが、その胸に金の光が放たれた。
それは音もなく、けれど確実に、鬼子母神の身体を貫いた。
「……母は……消えぬ……」
最後に囁いたその言葉と共に、夜叉は霧散し、すべての穢れが風に還っていった。
床に崩れ落ちた美智は、静かに涙を流していた。
「……蒼真……ごめんなさい……」
綾城はゆっくりと目を閉じ、全ての気を使い尽くして、ぐらっと身体が揺れて、慌てて理央が支える。
「先生、大丈夫ですか?」
「君の肩を借りるとは……、一生の不覚だ」
そう言って綾城は爽やかに笑った。
***
蝉の声が遠くなり始め、二子多摩川の夕暮れが街を淡く染めるころ。
白崎蒼真は、駅前の商店街を歩いていた。
手には、古びた専門書が入った紙袋。神田の古書店で、綾城から頼まれていた民俗学の資料をようやく手に入れた帰りだった。少し面倒な頼まれごとだったけれど、研究室の空気が好きで、あの人の言葉に逆らえなくて、つい引き受けてしまった——そんな自分を思いながら、いつもの帰り道をたどっていた。
曲がり角を過ぎ、見慣れた家の門柱が見えてきたとき、ふと足が止まる。
家の前に、大好きな二人の姿があった。
綾城遼一と、真木理央。
「……え?」
蒼真は思わず声を漏らした。
こんな時間に。こんな場所に。
その場違いな静けさが、逆にただ事ではないと告げていた。
門を開ける音に気づき、綾城がゆっくりと振り返った。まるで、何かを待っていたような表情だった。
「……おかえり、蒼真くん」
静かな、けれど揺るがぬ声音。
蒼真は、彼らの後ろにある家を見やる。そこは、十八年間、自分が育ってきた場所。けれど、今日は何かが違っていた。空気の密度、風の匂い、夕焼けの色さえ、微かに別のものへと変わっている気がした。
「先生、理央……どうしたんですか、どうしてうちに……?」
返答の代わりに、綾城はそっと紙袋を指差した。
「それは、例の本だね。ありがとう。……でも、今日はそれを受け取りに来たわけじゃない」
そして、一歩前に出た。
「蒼真くん、ここで話さなくていい。中で座って、静かに聞いてほしい。君に、話さなければならないことがある」
***
リビングに座った蒼真は、頭の中が真っ白になっていった。
綾城と理央は、順を追って淡々と、しかし一切の曖昧さなく、真実を語った。
白崎美智が、自分の“本当の”母親ではないこと。
三歳で亡くなった彼女の息子・蒼真の代わりに、渋谷で迷子になっていた自分を連れて帰ったこと。
そして今日、美智の穢れが祓われたこと——そして、庭の木の下に、彼女が埋めていた“蒼真の亡骸”が眠っていること。
蒼真は、何も言えなかった。
否定する言葉も、取り乱す感情も、どこかに置き忘れてきたようだった。
ただ、鼓動がうるさく響いていた。
静かに、けれど確かに、
綾城が口を開いた。
「掘り起こすかどうかは……君が決めることだ」
その言葉に、蒼真がはっと顔を上げた。
「君は、今ここで、人生の分かれ道にいる。一つは、あの木の下を掘り、真実を明るみに出し、警察に話し、実の両親の元へ戻る道。もう一つは、すべてを封印して、これまで通り“白崎蒼真”として生きていく道」
綾城は、言葉に感情を交えなかった。ただ、選択の責任だけを静かに手渡した。
「どちらが正しいかなんて、誰にも決められない。……ただ、それを選ぶのは、君自身だ」
蒼真はゆっくりと目を閉じた。
光が差し込む窓。ずっとここにあった家。
美智が作ってくれた朝ごはんの匂い、風呂上がりに渡されたタオル、勉強の合間に淹れてくれた温かい紅茶。
それらはすべて、偽りだったのか?
それとも——確かに、あの人が“母”として注いでくれた日々だったのか?
「……少し、考えさせてください」
絞るような声で言って、蒼真は頭を抱えた。
胸の奥で、何かが軋んでいた。
愛と罪、真実と日常、名と記憶——あまりにも多くの問いが、いま彼の中でせめぎ合っていた。
理央は、その横顔をじっと見つめながら、ただ一つ、心の中で祈っていた。
—— どちらを選んでも、君が君でいられるように。
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