第5話 運命の出会い

 函館の空は、薄曇りの合間から柔らかな日差しをこぼしていた。潮風がわずかに混じる夏の気配と、人々のざわめきが交錯する会場に、青嶋陽菜はるなは立っていた。


 彼女が立つブースには、ずらりと並んだ色鮮やかな料理。地元のトマトを贅沢に使った冷製カッペリーニや、昆布締めのホタテをあしらった柚子風味のジュレ。どれもが、陽菜のアイディアと愛情が詰まった「この土地ならではの一皿」だった。


 料理研究家としての陽菜は、もはや全国に名を知られる存在だ。自身のクッキングスタジオを経営し、テレビやSNSでも人気を博している。だが、その根底にあるのは、家族の食卓を守りたいという――ごく私的で、痛みを知る者にしか持ち得ない祈りのような想いだった。


「お母さん、これ、次の分ね! トマト切ってあるよ」


 陽菜の横で、娘のひまりが手際よく動いていた。高校に入ってから少し背が伸びたその姿に、陽菜は内心目を細めつつ、手を止めずに笑顔を返す。


「ありがと、葵。お客さん、増えてきたから、もうちょっとだけがんばろっか」


 葵はうなずき、また裏手のキッチンに小走りで戻っていった。陽菜は汗をぬぐう暇もなく、差し出される皿に笑顔で応じていく。ふと、視線を上げたときだった。


 ―― そこに、いた。


 観光客で賑わう人波の中、大学生と思しき数人のグループ。その中の一人の青年に、陽菜の視線が釘付けになった。

 黒髪が夏の陽にやや褪せて光り、無防備なほど朗らかな笑顔。彼が仲間と談笑し、肩をすくめて笑う仕草――その一瞬に、陽菜の時間が止まった。

 目元の形、笑ったときの頬の膨らみ、口元の角度。


 ―― みなと……?


 陽菜の指先から、トングが滑り落ちかけた。慌てて握り直した手は、小刻みに震えていた。頭の中で警鐘が鳴る。そんなはずはない、あり得ない――でも、どうしても否定できない。


「……っ」


 葵が、異変に気づいた。手を止め、母の前に駆け寄る。


「お母さん? どうしたの?」

「葵……あの子……今、そこの……」


 声が震えた。喉の奥が痛むほどに絞り出された言葉に、葵は視線を向ける。陽菜の示す先にいたのは、黒いTシャツにジーンズの、いかにも夏の大学生然とした青年。まるで悪戯好きな犬のように、どこか無防備で、笑い上戸な雰囲気。

 ……でも、目を凝らして見れば、その顔立ちの奥に、古い写真に写る三歳の兄の面影が、確かにあった。


「……連絡先、調べてきて。お願い。できるだけ、自然に。泊まってる宿も……お願い、葵」


 懇願するように言う母の姿に、葵は何も言わずうなずいた。これが初めてではなかった。母は時折、こうして“似た人”を見つけては、同じ反応をしてしまう。だが今回だけは――なぜか、胸騒ぎがした。


 葵は人混みをすり抜け、青年たちの輪にそっと近づいた。地元の学生を装い、さりげなく会話に入り込み、情報を得る。青年の名前は白崎蒼真。東京の大学に通っている。宿泊先は、ベイエリアのゲストハウスだという。


 戻ってきた葵の言葉に、陽菜は強い混乱を覚えた。名前も、苗字も、違う。けれど、心の奥底で確信だけが深まっていく。あの目は、間違えようがない。あれは、湊だ。


 陽菜は、ポーチにしまっていた小さな写真を取り出した。三歳の頃の湊。あの日、渋谷で見失ったまま、時間が止まった、あの子の笑顔。

 震える指で写真を見つめる。


「……湊……あなた、やっぱり、生きてるのね……」


 陽菜の胸に、十八年分の祈りと悔恨が、静かに溢れ出していた。


***


 函館ベイエリアのゲストハウスは、夜風にかすかな潮の香りを運ばれながら、穏やかな静けさに包まれていた。


 蒼真は薄暗い部屋の片隅で、窓枠に寄りかかっていた。観光地のにぎわいが一段落し、遠くの波音がかすかに耳に届く。


 昼間のできごとが、頭から離れなかった。


 トマトとホタテの冷製パスタ。ずらりと並ぶブース。大盛況の地元食フェス。そして――自分に向けられた、あの女性の視線。


 何かに突き動かされるような眼差しだった。言葉にならない強さと、決して口に出されなかった悲鳴のようなもの。

 その意味を考えようとしたときだった。


 コンコン、と扉がノックされた。


「白崎蒼真さん……いらっしゃいますか?」


 女性の声。それも、どこか震えている。ドア越しでもわかるほどの、切実さを孕んだ声だった。

 蒼真が戸を開けると、そこには昼間のブースで彼を見つめていた女性がいた。もう一人、地元の学生と名乗った女子高生も……。


「あなたに……お話ししたいことがあるの」


 女性は名乗りもせず、いきなりそう言った。いや、名乗る必要がなかったのかもしれない。彼女の目は、涙を堪えるように揺れていた。


「ちょ、ちょっとお母さん、落ち着いて……夜だし、ここ宿泊者専用エリアだし……」


 後ろの少女――葵が小声で制止しながらも、陽菜の腕をそっと握る。


「すみません、僕……どこかでお会いしましたか?」


 蒼真は精一杯、礼儀正しく問い返す。けれど、陽菜はその問いに答えなかった。ただ、じっと、祈るような瞳で彼を見ていた。


「……あなたのことを、探していました。ずっと。十八年、毎日」


 その言葉に、蒼真の心臓が一拍、強く脈打った。


「湊……って名前、聞いたことありませんか?」

「みなと……?」


 その名前は、どこか懐かしかった。遠い海の底で呼ばれたような、でも届かず、記憶から消えた名前……。


「あなたは、私の……私たちの……」

「お母さん!」


 葵の声が遮った。陽菜の肩を押し返しながら、彼女の前に立ちはだかるように言った。


「……ごめんなさい、ほんとに、変なこと言って。でも、お兄ちゃんが……もし、生きていたら、たぶんあなたと同じくらいなんです。……どうか、東京で、もう一度だけ会ってくれませんか?」


 少女の言葉は、陽菜の狂おしい感情とは違っていた。理性と礼儀が混じり合い、それでも揺るぎない決意がこもっていた。

 蒼真は、しばらく返事ができなかった。

 その場に立ち尽くしながら、心の奥が軋んでいた。ふいに、何かが溢れてきそうになって、唇を噛んだ。


「……わかりました。連絡先、教えてもらえますか」


 陽菜が、あっ、と息を漏らした。葵が小さく、けれどはっきりとうなずいた。


「ありがとう。ありがとう……!」


 涙ぐむ陽菜の手を、葵が引きながら、二人は静かに立ち去っていった。その背中が角を曲がり、夜の街に溶けて消えるまで、蒼真は何も言えずに見送っていた。

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