第3話 八幡大神

 晴れた空を背景に、朱塗りの楼門が静かにそびえていた。境内には、初夏の陽光を浴びた樹々の葉が鮮やかに輝き、参道には観光客と地元の人々が行き交っていた。


 理央の胸は、早くから軽く弾んでいた。久しぶりに綾城先生と同じ班で動けるのだ。しかも、由緒ある八幡信仰の総本社ともいえる鶴岡八幡宮を舞台に、祭祀と武神信仰についてのフィールド調査。気合が入らないはずがなかった。


「やっぱり、かっこいいよね、八幡宮って……風がぜんぜん違う」


 参道の途中、理央はポツリと呟いた。

 その横で、柚季が手帳を片手ににこにこと頷く。


「ねえ理央くん、さっきからずっと前しか見てないけど、蒼真くん、ちょっと元気ないと思わない?」

「え?」


 理央はようやく振り返った。蒼真は、少し遅れて三歩ほど後ろを歩いていた。俯き加減で、いつものような旅行好きの快活さはどこか影を潜めていた。


「……本当だ。なんか……顔色、よくない?」

「最初から気づいてましたよ、私たちは」


 志帆が少し刺すような声で言った。整った横顔はいつも通り涼やかだが、目元だけはわずかに曇っている。


「あなた、今日は朝からうきうきしすぎ。気持ちはわかるけど……友達なんだから、ちゃんと空気、読まなきゃ」

「……ご、ごめん……」


 理央は頬を赤らめて、うつむいた。

 たしかに、自分ははしゃいでいた。綾城先生と話せる。質問もできる。気づけば、周囲の様子が見えていなかった。

 そんな理央の肩に、いつの間にか綾城が横に並んでいた。


「八幡宮は、ただの武家の象徴じゃない。“力を持つ者が、弱き者を守る義務”を背負わされる神でもある。……見落としてはいけないよ、理央くん」

「……はい」


 理央は息を飲んだ。綾城の声は、穏やかだった。それでも、静かに胸に刺さる。

 この人は、すべてを見ている。蒼真の異変に、誰よりも早く気づいていたのだろう。


 本殿の脇で行われた宮司への取材が始まり、志帆と柚季がそれぞれメモを取っている。綾城は真剣な眼差しで、八幡信仰の変遷について宮司の話に耳を傾けていた。

 理央はそっと蒼真の姿を探す。手水舎の近くの影に、ひとり立っているのが見えた。

 ふと、心が引かれるようにそちらへ向かいかけたそのとき。

 風が、変わった。

 陽光の中に、鋭く澄んだ気配が差し込む。

 理央の身体がふわりと浮かぶような感覚に囚われた。視界の中で、人々の輪郭がぼやけてゆき、ただ一人、圧倒的な存在感で立っていたのは――

 白い装束に身を包み、漆黒の烏帽子をかぶった男だった。彼の背後には、松林のごとき気が立ち昇り、空間そのものが沈黙を強いられているようだった。


 ―― 八幡大神。


 そう直感した。


 ―― おまえに託す。あの者は、穢れに触れた。


 低く、重々しい声が、理央の胸の奥で響く。神ではない人間には到底発することのできない声だった。


 ―― すぐに害なすようなものではないが、長く放置すれば、いずれ破れる。あの者は、おまえに心を開いている。ゆえに、剣となる時が来たら、我が力を貸す。

 ―― 剣……?

 ―― 武の神は、やみくもに敵を討つために在るのではない。守るためにこそ、在る。瀬織津の子よ、穢れの潮をまといし者に、いかづちの矢を与えよう。


 理央の瞳の奥に、雷鳴のような光が走る。神の姿が、白く滲んだ。

 次の瞬間、ふと肩を叩かれた。


「……理央?」


 蒼真だった。


「大丈夫? 顔、真っ青だけど……」


 理央は一瞬、答えを忘れてしまった。身体が火照っているような感覚と、肌の奥を電流が走るような余韻。


「ううん、ちょっと光が強かっただけ。……でも、蒼真くんこそ……平気?」


 理央の微笑みは、どこか神秘的な柔らかさを帯びていた。瀬織津姫が、今、自分の中でそっと微笑んでいる――そう感じたから。


「へんな顔してるよ、理央くん」

「……だいじょうぶ。行きは変に浮かれてごめん。帰りは、ちゃんと君のこと、見るから」


 理央はそう微笑んだが、その声はいつもより少し低く、柔らかかった。

 蒼真の目が、微かに揺れる。彼の肩の力が抜けていくのがわかった。その瞬間、理央の内側で、何かがそっと動いた。

 指先に、淡い冷気のような感覚が宿る。気づけば、自分の手が自然と蒼真の肩に触れていた。戸惑う蒼真の視線の奥で、黒い影のようなものが微かに揺れているのが見えた。

 それは、言葉にならない痛みだった。

 母から向けられる過剰な愛情――その名を冠するにはあまりにも息苦しく、執着に近いそれが、蒼真の胸の奥にひっそりと、だが深く沈殿していた。


 理央は目を閉じた。


 ―― 瀬織津姫。どうか、この子の中に沈んでしまった、名もなき哀しみを、流してください。


 すると、背後から吹き抜ける風の音が変わった。まるで水面をなでるような、しとやかな潮のさざめき。理央の中に満ちていくのは、瀬織津姫の気配――清らかで、母なる海のように包容力に満ちた神の息吹。

 肩に触れていた手のひらから、ほんのりと温かな光が滲み出す。目には見えないその光は、蒼真の胸の奥に届き、沈殿していた影に静かに触れた。

 ぼろぼろになった記憶。声にできなかった拒絶。自分でも気づかないほどに、奥へと追いやっていた傷。

 それらが、少しずつほどけていく。


「……っ」


 蒼真が、小さく息を呑んだ。こらえた涙が、まぶたの裏ににじんだのが分かった。


「……あったかい……なんだろう、これ」


 理央はゆっくりと目を開けた。蒼真を包んでいた影が、ゆらりと揺らいで、風に乗ってすうっと消えていくのが見えた。


「潮の香りがする……気のせい、かな」


 そう呟いた蒼真の瞳には、確かにほんのわずか、色が戻っていた。

 それを見て、理央は微笑んだ。自分の中の瀬織津姫が、穢れを海に流したと確信できた。


***


 二人の様子を、少し離れた場所から静かに見つめていた綾城は、ふと、風の流れが逆巻くような違和感に眉を寄せた。


 空気の淀み? いや、“気配”があった。


 理央の異能がもたらした祓いは確かに強かった。瀬織津姫の力は、穢れを洗い流し、海へと送り返す。だが、その穢れは、わずかに“抵抗”を見せていた。

 蒼真の背後、誰にも見えぬ次元に、黒煙のようなものが蠢いていた。

 理央の祓いの力から全力で逃れるように、懸命にもがきながら、しかし確実にふたりの背を追っている。


 ―― 未練? いや執着か。


 その質感に、綾城は即座に気づく。


 ―― 神ではない……いや、“神に至り損ねた者”か。


 綾城は静かに一歩踏み出し、左手を胸元に当てる。呼吸を深く、瞳を伏せ、ゆるやかに唱える。


「白山の姫よ。契りし魂の声に応じて、この地の縁を絶たせたまえ」


 静かだった空気が、微かに震える。

 次の瞬間、風も光も沈黙した空間の中で、綾城の足元に、白金の糸のような輝きが走った。それは菊理媛の象徴――“縁を結び、縁を断つ”力の発露だった。


 黒い煙は、微かに悲鳴のようなうねりを上げ、光の中で形を失っていく。何かを訴えようとするように、最後まで伸ばした“腕”のような影が、やがて無に還った。


 ―― 消えた。確かに、今度こそ完全に。だが穢れを発したものを立たぬ限り、再び憑くのであろう。


 綾城の脳裏に、穢れを発したものらしき姿が映る。


 ―― 名を持たぬ、意志ある穢れ。人の心に棲み、なお神の力にも縋ろうとするものよ。


 綾城は静かに目を開け、理央と蒼真の背中に視線を送った。理央はまだ気づいていない。瀬織津姫の笑顔のような優しさだけで、穢れの“しぶとさ”を見逃していた。


 だが、綾城は確信する。

 この穢れを発したものは、神とは異なる。

 おそらく……、人に近い。


「……憑くのではない。棲むのだ、人の形を借りて」


 そう呟いた綾城の瞳には、もう満足などなかった。そこにあったのは、次に訪れる“脅威”を予感する者としての、張り詰めた沈黙だった。

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