第3話 事務総長の秘密

 神保町の夜は、春の冷気をわずかに含みながらも、アスファルトの上に初夏の兆しを漂わせていた。人影のまばらな通りに、ビルのガラス窓に映るネオンがにじむ。綾城遼一は、編集会議の終わった出版社を後にし、最寄りの駅へと向かっていた。


 次の単著は「祓えと呪詛――近代祭祀の残響」と仮題がつけられており、彼の研究生活の中でも一つの区切りとなるものだ。編集者たちの熱量と口調のテンポは早く、会議室の空気は熱を持っていたが、彼自身の心は相変わらず静かだった。


 ただ、無意識に胸の奥に沈んでいた思考の残滓が、足取りに揺らいでいた。


 ―― 久遠柚季と、真木理央。


 この春、新たに研究室に加わった学部生。中でも理央の存在は、綾城にとって微妙な違和感を伴っていた。論理的でありながら直感を重んじ、彼の言葉の行間にまで耳を澄ませようとする。理央の眼差しは、憧れの師を見るそれだけではなく、綾城遼一という人間を透かし見るかのように鋭い。未熟であるがゆえに、脆く、危うい。


 その姿が、なぜか綾城の記憶の奥に引っかかって離れない。

 と、不意に。


 夜のビル街の角を曲がった先、照明の落ちた一角で、二人の人影が重なっていた。男性の肩に小さな女性が凭れかかるようにしがみつき、離れがたそうに何かを囁いている。


 通り過ぎようとした綾城の足が、ふと止まった。


 見覚えのある後ろ姿。明らかに仕立てと分かる身体の線に無駄がなく、ぴしりとフィットしたスーツ。袖口のカフスボタンが車のヘッドライトに反射して煌めいたとき、それは確信へと変わる。


「……安原事務総長?」


 声をかけるつもりはなかった。だが、思わず発した声で彼の存在に気づいたのか、男性の方がゆっくりとこちらに顔を向けた。


 気まずそうな表情の中に、微かに諦めにも似たものが滲んでいる。女性の方もこちらの気配に気づき、さっと身体を離す。ジャケットの袖口をぎゅっと掴んでいた手をゆるやかに引き、眉を伏せた。


「……綾城先生。これは、その……」

「こんばんは、綾城先生」


 口ごもる昌治と対照的に、相手の女性の口調は明瞭だった。控えめな声ながら、どこか覚悟のようなものを孕んでいる。白い肌と長い睫毛が、街灯の下で影を落とす。


「小野寺静流です。明峰大学の卒業生で……今は編集の仕事をしています」


 名乗る声に、綾城は眉をわずかに動かした。どこかで聞いたことのある名。思い出そうとするが、今は言葉を返すのが先だった。


「そうですか……失礼しました。偶然でしたので」


 彼の視線は淡々としていたが、内心には波紋が広がっていた。不倫、という単語が頭をかすめる。そして、相手の女性の腹部に向けられた昌治の何気ない手の動きが、なぜか妙に気にかかった。


「静流、先に帰ってくれ。俺は少しだけ、先生と話をしていく」


 昌治の言葉に、静流は小さく頷いた。彼女は一礼し、静かに夜の通りの向こうへと歩き出す。その後ろ姿を、昌治はしばし目で追い、そしてため息を一つ、深く吐いた。


「……悪いところを見られたな、綾城先生」

「何か弁明を求めるつもりはありません。けれど、事務総長として、大学内での影響を考える必要はあるかと」


 綾城はあくまで淡々と、私情を交えない言い方を選んだ。

 しかし、昌治はその理知的な態度に、かえって苦笑を零した。


「君はこんなところを見ても動揺しないんだな。目を見れば分かるよ。……飲みに行かないか。少し、話をしたい」


 綾城は一瞬だけ視線をそらし、それからゆっくりと頷いた。


「構いません。ただ、私に感情的な慰めはできません」

「それでもいい。……君のような冷静な人間に、私の話を聞いてほしくなったんだよ」


 ビルの谷間の夜風が、ふたりの上着の裾を揺らした。交差点の向こうに、遅い時間でもまだ開いているバーの灯りが見えていた。


***


 水道橋駅に続く裏通り、しっとりとした夜の静けさを纏う小さなバー。その名も『夜叉桜』といい、古いビルの二階にひっそりと灯をともしていた。木の扉を開けると、重たいジャズの旋律と、琥珀色の照明がゆるやかに空間を包み込んでいる。


 綾城遼一は、奥のカウンター席に並んで座る男の横顔をちらと見た。安原昌治。大学の事務総長にして、普段は社交的で言葉も明るい男だったが、今夜の彼は違った。まるでその眼差しに、長く押し殺してきたものが滲んでいるようだった。

 カウンターにはバーボンとウイスキーのボトルがずらりと並び、グラスを磨くバーテンダーの所作が静寂の一部となっていた。綾城はロックでアイラモルトを、昌治は水割りのバーボンを選んだ。スモーキーな香りと鋭い後味を好む綾城の選択は、冷静で他人と距離を取る彼の性質を映しているようだった。一方、昌治のバーボンは、どこか優しさと甘えを残すぬるい強さを湛えていた。


「なあ、綾城君。俺はさ、自分の器が小さいって、よく分かってるんだよ」


 昌治は、手元のグラスを揺らしながら、ぽつりとつぶやいた。


「道代は立派な女だ。大学の理事の娘ってだけじゃない。運営にも口出しせずに、でも見えないところで全部支えてる。……それが分かってるからこそ、どうしようもなくなるんだ」


 綾城は無言で、彼の言葉を受け止めた。


「静流とはな……卒業間際、就職が決まらなくて悩んでたとき、少し相談に乗ったんだ。その後、別の教授の出版の件で再会してな。あいつ、当時いろんな人間関係で疲れ切っててさ……俺もなんとなく、放っておけなかったんだ」

「……それで、仲良くなった」

「ああ。あいつ、見た目は清楚でシャンとしてるけど、意外と脆いところがあってさ。立ち直ったふりしても、急に泣くんだ。そういうの、見てると……なんか、俺が守らなきゃって思っちまった」


 昌治の声は少し掠れていた。グラスの氷が、ひとつ、コツンと鳴る。


「……でも、道代さんのことを裏切ってるのは事実ですよ」


 綾城の言葉は柔らかいが、鋭さを孕んでいた。


「分かってる。でもな……分かってても、戻れないんだよ。いや、戻りたくないのかもしれない」


 綾城はひと息つき、目を細める。


「安原さん、いまのままでは、どちらも不幸になりますよ。彼女のためにも、自分のためにも、関係を清算した方がいい」


 しばらくの沈黙ののち、昌治は唇を噛んだ。


「……静流、妊娠してるんだ」


 その言葉に、綾城の指が止まる。


「……本気なんですね」

「ああ。もう限界だよ。道代との関係は、ずっと綱渡りだった。静流とやり直したい。……大学も、辞めるつもりだ」


 綾城は深くグラスを傾けた。


「それは……あなたの人生ですから。是非は言いません。ただ……」


 声がふと途切れた。胸の奥に、名付けがたい不安が残った。

 何かが、崩れていく音がした。

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