境界線の少女と異形の街

kareakarie

第1章 境界線のゼリーフィッシュ

アスファルトのひび割れから、弱々しい雑草が顔を出している。陽炎が立ち上る午後の道は、白茶けた光に満ちていた。空気は重く、埃っぽい匂いが微かな鉄錆の気配と混じり合って、肺の奥に沈殿していくようだ。私は、歩道橋の階段に腰を下ろし、遮るもののない空と、その下に広がる歪な風景をぼんやりと眺めていた。


空は、どこまでも青い。それはもう、残酷なくらいに。この街がこんな風になる前と、少しも変わらないように見える。けれど、地上には異物が蔓延っていた。かつて商店が軒を連ねていたはずの通りには、今は名状しがたい「ナニカ」がいくつも佇んでいる。金属と肉が捩じれ合い、錆びたパイプが神経束のように伸びて蠢く。あるものは巨大な昆虫の骸のようであり、あるものは打ち捨てられた家電製品が意思を持ったかのような姿をしている。風が吹くと、それらの身体の一部と思しき薄い膜や突起物が、かさかさと頼りない音を立てた。人の気配は希薄で、聞こえるのは風の音と、遠くで「ナニカ」がきしむ音だけだ。


「ゼリーフィッシュがね、空から降ってきたの。たくさん」


不意に、隣から声がした。いつの間にか、ほのかが私の隣に座っていた。気配を消すのがうまいのか、単に私が鈍いだけなのか。彼女はいつもそうだ。気づくと、すぐそばにいる。肩までの黒髪が、汗ばんだ首筋に張り付いていた。色素の薄い瞳が、じっと前方の「ナニカ」を見つめている。


「ゼリーフィッシュ?」

聞き返すと、ほのかはこくりと頷いた。指さす先には、半透明のドーム状の頭部を持ち、そこから無数のケーブルのような触手を垂らした「ナニカ」が、微かに揺れていた。なるほど、海月(クラゲ)に似ていなくもない。でも、あんなものが空から降ってきたなんて話は聞いたことがない。


「嘘でしょ」

「嘘じゃないもん。昨日の夜、屋根の上で見たんだから。キラキラしてて、しゃぼん玉みたいだった。そーっと降りてきてね、電線に引っかかって、朝になったら、あんなふうになってた」

ほのかは、抑揚のない、けれど妙に確信に満ちた声で言う。彼女の言葉はいつも、現実と空想の境界線を曖昧にする。どこまでが本当で、どこからが彼女だけの景色なのか、私には判別がつかない。


私たちは、この奇妙な静寂に慣れきってしまっていた。いや、慣れるしかなかったのだ。「ナニカ」が現れ始めた頃は、街ももっと騒然としていた。自衛隊が出動し、専門家らしき人々が調査に訪れ、メディアは連日トップニュースで報じた。けれど、原因も、対処法も分からないまま時間だけが過ぎていくうちに、人々は次第に無関心になっていった。危険なのは確かだが、こちらから手を出さなければ、大抵の「ナニカ」はただそこにいるだけだ。まるで、最初から風景の一部だったかのように。そして人間は、理解できないもの、対処できないものに対しては、見ないふりをするのが一番楽だと知っている。


あいちゃんはさ、あれ、なんだと思う?」

ほのかが、今度は別の「ナニカ」を指さした。それは、古びた配電盤のような胴体に、動物の骨らしきものが歪に組み合わさり、頭部には鳥の巣のような飾りがついている。時折、その飾りの中から、カチ、カチ、と乾いた音が聞こえる。

「さあ。考えたこともない」

「ふうん」

ほのかはつまらなそうに唇を尖らせた。

「私はね、あれ、忘れられた神様の成れの果てだと思うんだ」

「神様?」

「うん。昔はきっと、もっとキラキラしてて、みんなに大事にされてたんだよ。でも、誰も祈らなくなっちゃったから、寂しくて、拗ねて、あんな形になっちゃったの。カチカチ鳴ってるのはね、昔の思い出を数えてる音」


彼女の言葉は、詩のようでもあり、戯言のようでもあった。けれど、その突飛な想像力は、この荒涼とした世界に、ほんの少しだけ、奇妙な色彩を与えているような気がした。私には到底思いつけない発想だ。私はただ、目に映るものをそのまま受け入れることしかできない。そこに意味や物語を見出そうとはしない。そんなことをしても、腹が満たされるわけでも、安全が保証されるわけでもないのだから。


私にとって大事なのは、今日一日を無事に終えること。そして、明日もまた、同じように無事に過ごせること。そのためには、余計な感傷や好奇心は邪魔になるだけだ。ほのかのように、「ナニカ」に意味を見出そうとする行為は、私には理解しがたい贅沢に思えた。


ほのかは立ち上がると、おもむろに歩道橋の階段を下り始めた。

「どこ行くの?」

「ちょっと、挨拶してくる」

彼女はこともなげに言って、「ナニカ」の方へ近づいていく。私は思わず息を呑んだ。あんなものに近づくなんて、正気の沙汰じゃない。距離を置くこと。それが、この街で生き延びるための暗黙のルールだったはずだ。


ほのかは、ゼリーフィッシュ型の「ナニカ」の前で立ち止まった。見上げる彼女の横顔は、真剣そのものだった。何を話しかけているのか、ここからでは聞き取れない。ただ、彼女の唇が動いているのが分かる。「ナニカ」は相変わらず、微かに揺れているだけだ。その光景は、ひどく歪んでいるのに、なぜか一枚の絵画のように、私の目に焼き付いた。


恐怖よりも先に、奇妙な感覚が胸をよぎる。ほのかは、本当に「ナニカ」と対話できるのだろうか? あの、人間とは全く異なる存在と。それとも、これも彼女だけの世界の出来事なのだろうか。


やがて、ほのかはこちらに向き直り、小さく手を振った。そして、また何事もなかったかのように、私の隣に戻ってきた。

「なんて言ってた?」

私は、自分でも意外なほど落ち着いた声で尋ねていた。

「別に、何も。ただ、ちょっと寂しそうだった」

ほのかはそう言って、悪戯っぽく笑った。その笑顔は、この灰色の世界には不似合いなほど、屈託がなかった。


風がまた吹き、遠くで金属の軋む音が響く。私は再び空を見上げた。変わらない青空の下で、私たちの日常は、静かに、けれど確実に、歪み続けている。そして私は、ほのかが放つ不可思議な熱量に、知らず知らずのうちに引き寄せられているのかもしれない、と思った。それは、厄介ごとを避けたいという私のささやかな私欲とは、正反対の引力だった。

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