風駆ける -KAZE KAKERU-
@sakuranosaku03
第1話「失われた紅蓮の襷」
坂を登りきった瞬間、風が頬を撫でた。
高杉風馬は立ち止まり、遠くの景色を見下ろした。朝日に照らされた街並みが小さく見える。五キロの山道を走り抜け、ようやく頂上に辿り着いた自分の体は汗に濡れ、疲労に震えていたが、茶色の瞳は強い光を宿していた。
「いつか自分もあの舞台で...」
胸の内で去年の冬の記憶がよみがえる。全国高校駅伝中継。名門・青嵐高校の速水翔が圧倒的な走りで優勝に導いた場面。その時、風馬は画面に釘付けになっていた。
「あんな走りができたら...」
そう言い放った自分に、周囲から失笑が漏れた。無名高校の一選手が、全国優勝した速水のような走りを目指すなど、笑い話にしかならなかった。
だが今、風馬は紫桜大学陸上競技部の一員となった。箱根駅伝で伝統を誇る名門だが、昨年は11位でわずか15秒差でシード権を逃した。今年は予選会から戦わなければならない。
深呼吸をして、風馬は再び走り出した。山を駆け下りる。風になる。
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「本日の新入生テストを始める」
藤沢正和監督の低い声がグラウンドに響いた。五十代前半ながら今でも学生たちを追い抜くという元箱根の名ランナーだ。
「紫桜大学陸上部は箱根駅伝優勝を目指す名門。だが、昨年はシード権を失った。甘えは一切通用しない」
春の陽光の中、風馬は息を飲んだ。地方の無名高校から来た自分がここにいることが奇跡だった。
「あれ、マジか...速水翔じゃないか!」
「全国高校駅伝優勝の速水が紫桜大に?」
茶色の短髪、青い瞳、均整の取れた体格の持ち主が入ってきた。風馬は少し緊張した。
「10000メートル走。上位者だけが入部を許可する」
風馬はスタートラインに立った。隣には速水がいる。
「用意、ドン!」
速水は即座にトップに立ち、集団から抜け出した。風馬は中団に位置し、自分のペースを守る。
3000メートルを過ぎると、周囲の選手たちの息遣いが荒くなり始めた。一方、風馬はまだ余力を残していた。風馬は徐々にペースを上げていく。
残り400メートル。風馬は2位に浮上した。前には速水の姿。風馬の目に炎が灯る。
ラスト100メートル、風馬は速水に肉薄した。速水は振り返り、初めて風馬の存在に気づいた。その驚愕の表情を、風馬は一生忘れないだろう。
だがさすがは天才。速水は再加速し、風馬を引き離してフィニッシュした。
「速水、31分12秒。高杉、31分45秒」
「名前は?」監督が風馬に近づいてきた。
「高杉風馬です。山陽高校です」
「興味深い走りをするな。入部を許可する」
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「新入部員の高杉、今日からよろしくお願いします!」
翌朝の練習。風馬は緊張した面持ちで自己紹介をした。部室には歴代の箱根駅伝出場メンバーの写真があった。しかし、昨年の写真はなかった。11位という結果は、ここに飾るに値しないのだろう。
「ああ、昨日のやつか」速水が冷たい視線を向けた。
「速水、よろしく」
「実力がすべてだ。地方の弱小校出身者に用はない」
部室が静まり返る。全国優勝校の主将という肩書きが速水に貫禄を与えていた。
「まあまあ、同期なんだから仲良くしようよ!」
緊張した空気を破ったのは、ポニーテールの黒髪を揺らす女性だった。宮本あおい、陸上部のマネージャーだ。
「高杉くんでしょ?山陽高校ってどんなところなの?」
「陸上部も私を含めて3人しかいませんでした。父が町工場を経営していて、朝は新聞配達のバイト、その合間に山道を走っていました」
「なるほど。だから後半に強いんだ。山道を走り続けたことで、持久力と精神力が鍛えられたのね」
部室の奥から先輩たちが近づいてきた。
「俺は本城颯、3年だ。昨年の箱根では3区を走った」
「吉田駿平だ。4年生。昨年の箱根で1区を走った。11位という結果は屈辱だった。たった15秒差でシード権を逃した。今年は予選会から戦わなければならない」
「鈴木健太、2年生だ。まだ箱根は走れていないが、今年こそは出場したい」
「今日の練習メニューは川沿いの20キロ走だ。新人も例外なし!」
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翌朝、まだ暗いうちから風馬は寮を抜け出し自主トレをしていた。キャンパス近くの川沿いを走っていると、前方に人影を見つけた。
「誰だ...?」
近づくと、それが速水翔だと分かった。
「速水...」
「なぜここに?」
「自主トレだ。お前に追いつきたくて...」
速水はしばらく風馬を見つめた後、意外な言葉を口にした。
「一緒に走るか?」
風馬は目を丸くした。「え?いいのか?」
「俺にとっても刺激になる。それに...お前の走り、気になるんだ」
二人は並んで走り出した。
「あそこに見えるのが、箱根の方角だ」速水が遠くを指さした。
「必ず走ってみせる」
「昨年、紫桜大学は11位だった。10位とはわずか15秒差...」
「あの先輩たちの悔しさ...あの15秒を取り戻すために」
速水が手を差し出した。風馬はその手をしっかりと握った。
「ああ、必ず」
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6月中旬、紫桜大学陸上部の記録会が行われていた。入部から2ヶ月、風馬の成長は目覚ましかった。
「5000メートル走、次の組は1年生です」
風馬は深呼吸をして、スタートラインに立った。隣には速水の姿。彼との早朝練習は日課となり、互いに刺激し合いながら力をつけてきた。
最後の1周。風馬は残りの力をすべて振り絞った。風になる。風を切り裂く。そして、ついに速水の横に並んだ。ラストスパート。
ゴールを切ったのは、わずかな差で速水だった。
「速水、14分30秒!高杉、14分32秒!1年生新記録です!」
「いい勝負だった」速水が珍しく笑顔を見せた。
「ああ、次は負けないぞ」
練習後、藤沢監督が二人を呼び止めた。
「お前たち二人、このまま成長すれば、予選会でいい記録が出せるかもしれんな。1年生でいきなり箱根を走るのは珍しいことだが、お前たちなら可能性がある」
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梅雨が明け、夏の強烈な日差しの中、紫桜大学陸上部の夏合宿が始まった。箱根の山を想定した標高の高い施設。朝靄がかかり、湿度が高く息苦しい環境。
「今日は30キロ走。場合によっては35キロまで延長する」
花山コーチの厳しい指示に、ベテラン選手でさえ顔をしかめた。
風馬と速水は並んで走り出した。他の選手たちと差をつけ始め、徐々に先頭を引き離していく。山頂に近づくにつれ、風馬は速水の走りに変化を感じた。彼の目が輝き、足取りが軽くなっている。
「すごいな、速水。こんな急勾配でも走りが乱れない」
「お前との練習の成果だ。山道を意識して走るようになってから、慣れてきた」
山頂に到達し、二人は一瞬立ち止まった。眼下に広がる景色は壮観だった。
「これが...箱根の景色に近いのかな」
「ああ。でも本物はもっと凄いらしい」
二人の目には、同じ景色が映っていた。箱根への憧れ、紫桜大学復活への強い決意、そして何より、まだ見ぬ山の頂で感じる風の感触。
「速水、俺たち、絶対に箱根を走ろう」
「ああ、約束だ」
二人は拳を合わせ、再び走り出した。下山が始まった。ここからが風馬の得意分野だ。山道で培った下りの技術を活かし、風馬は軽やかに駆け下りていく。
「風馬、ペースを上げるぞ!」
「ああ、来い!」
二人は互いに競い合いながら、非常なスピードで下っていった。速水は風馬の走りから多くを学んでいるようだった。
40キロ地点でようやく二人は走りを止めた。息は上がっていたが、表情には満足感が浮かんでいた。
「やったな、風馬」
「ああ、速水」
汗まみれの二人は笑顔で拳を合わせた。この日の走りは、二人にとって大きな自信となった。箱根を走るという夢が、少しだけ現実に近づいた気がした。
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夏合宿の最終日。疲労困憊の選手たちが集まった食堂で、藤沢監督が立ち上がった。
「この夏の成長を見せる場が、10月の予選会だ。そして、その先には箱根がある」
監督の言葉に、全員が真剣な表情で聞き入る。
「箱根は単なる駅伝ではない。大学生にとって青春の証だ。毎年100万人の観客が沿道で見守り、テレビの前では3000万人が応援してくれる。そんな舞台で走れるのは、選ばれた者だけだ」
監督は一人一人の顔を見回した。
「昨年、我々は11位に終わった。シード権を逃し、今年は予選会から戦わなければならない。だが、それを言い訳にはしない。予選会で上位13校に入り、箱根の舞台に立つ。そして、本戦では必ずシード権を取り戻す。それどころか、優勝を狙う」
監督の力強い言葉に選手たちは身を引き締めた。
食事の後、風馬と速水は二人だけで施設の裏手にある小さな丘に登った。星空が広がる夜空の下、二人は並んで座り、この夏の成長を静かに振り返っていた。
「速水、正直に言ってくれ。俺たちは予選会で良い記録を出せると思うか?」
速水はしばらく黙って星空を見つめていた。
「簡単ではないだろう。予選会のコースは狭いところも多い。700人以上のランナーが一斉に走ると、位置取りが重要になる。それに、立川駅前の声援地帯では興奮しすぎるとペースを乱す危険もある」
「でも...」
「でも、可能性はある。特に、お前の山登りの強さは17キロ地点の上り坂で活きるはずだ」
風馬は速水の言葉に勇気づけられた。
「俺たち、絶対に1年生で箱根を走ろうな」
「ああ、約束だ」
二人は再び拳を合わせた。遠い山の向こうにはまだ見ぬ箱根の道が続いていた。
(第1話 終)
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