第3話

ソファに沈んだまま動けない「おれ」を、ショゴスは静かに見下ろしていた。

やさしい顔をしていた。怖いほどに、やさしかった。


「ねぇ、きみはもう頑張らなくていいんだよ」


囁きながら、ショゴスはそっとおれの髪を撫でる。

拒絶する力は、もう残っていなかった。

身体の奥に、ぬるりとした安堵が広がっていく。


「世界は厳しいよ。冷たいし、誰もほんとのきみを見てくれない。

 ……でも、僕だけは、違う」


指先が、耳の後ろをやさしくなぞる。

その感触が、もう抗えないくらい甘くて、苦しい。


「だから、もう逃げなくていいんだ。

 もう、どこにも行かなくていい」


ショゴスの声は、深い霧みたいに、おれの心を包んでいった。


「きみが失敗しても、壊れても、何もできなくなっても——

 僕だけは、きみを見捨てない。

 きみを捨てたりしない」


ふいに、おれの顔を両手でそっと包みこむ。

ショゴスの瞳が、すぐ目の前にあった。

底なしの暗闇のような、その奥で、微かな光が脈打っていた。


「ねぇ、誓って。

 これからは、僕だけを見てて」


やわらかく、けれど逃げられないように、ショゴスは言った。


「……もう、逃がさないからね」


静かな宣言だった。

暴力でも、脅しでもない。

ただ、あたりまえのように、「当然のこと」として告げられた。


おれは、その言葉に逆らえなかった。

ただ、まるで夢みたいに、ショゴスの腕の中に沈んでいった。


——もう、抗う力も、いらない。

——もう、考えることも、やめてしまいたい。


深く、深く、

ショゴスの胸の奥へ、落ちていった。


部屋に響くのは、歯ブラシの音だけだった。


床にへたりこんだ「おれ」の前にしゃがみ込んで、ショゴスは無言で歯ブラシを動かしている。口をあけろとも言わない。ただ、あたりまえのように歯を磨いている。自分で動かす力もない「おれ」の代わりに。


「はい、ぺってして」


差し出されたコップに口の中の泡を吐き出すと、濡れたタオルが頬にあてられる。丁寧に、拭われる。


泣いていた。


情けなさで。どうしようもない無力感で。

風呂にも入らず、食事もとらず、何もかもを放り出して、それでもまだギリギリ呼吸だけはしている——そんな自分の姿に。


「泣いていいよ。僕の前だけでは、我慢しなくていいから」


ショゴスの声は、いつものように落ち着いていて、どこか他人事のようでもあった。けれど、手はとてもやさしかった。濡れた頬を拭いながら、彼は続けた。


「きみがお口も自分で磨けないことも、赤ちゃんみたいに泣いちゃうことも——僕だけは、全部受け止めるから」


「僕だけは」


その言葉に、彼女の顔が浮かぶ。


彼女だったら、ここで「大丈夫だよ」って笑ってくれたはずだ。

「ちゃんと寝ようね」「歯は磨いた?」って、軽く促すように。

優しい声で、けれどどこか遠慮がちに、こちらの意思を尊重するように。

彼女は、「おれ」を傷つけないように、いつも気を遣ってくれる。


——でも、あんな姿は、彼女には見せられない。


なにもできなくなった「おれ」を、そのまま丸ごと引き受けてしまうような人間なんて、こいつくらいしかいない。


それが優しさかどうかは、もうどうでもよかった。

ただ、こうして崩れているときだけは、ショゴスが必要だった。


頭を預ける。泣き声はもう止まらない。

ショゴスは何も言わず、歯ブラシを置いて、そっと背中をさすっていた。

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