第2話 解放

 新学期までの日々は、文字通り矢のように過ぎ去って行った。

 憧れの一人暮らしが出来ると思っていたが、娘をいきなりアパートで一人暮らしさせたくないという親の希望で寮に入る事になった。

 この時の親の判断が違っていれば、わたしの人生もまた違うものになっていたのかもしれなかった。

 寮の部屋には小さな冷蔵庫や電子レンジ、ガス台などが備え付けられているらしい。

 そのため、新生活に向けて揃えるものは予想していた程は多くなかった。

 それでも引越しに向けた様々な準備や、高校の友人からの「もうなかなか会えなくなっちゃうんだから遊べる日は全部遊ぼう!」といった誘いに答えたりしているうちに、あっという間に引っ越し当日になっていた。

 三月の北日本はまだまだ寒い。

 道路の端には雪が残っている。

 駅の中も冷え冷えとしていた。

 寒さで鼻の奥がツンと冷える感覚を覚えながら、みどりの窓口で購入した切符を片手に両親の元へ歩く。

「それじゃあ、気をつけて」

 心なしか両親は寂しげだったが、わたしの頭の中を占めていたのは両親への配慮ではなく新生活への期待だった。

 どんな部屋なのか、同じ寮にはどんな人が住んでいるのか。

 一人で過ごす夜がどんなふうに感じられるのか。

 知らない景色のなかに身を置くということが、わたしを少しだけ浮き足立たせていた。

「…………」

 さようなら?またね?お元気で?今までお世話になりました?——嫁入りでもあるまいし。

 なんと言うのが正解なのか遂に分からず、取り敢えずいつものように行ってきます、とだけ口にした。

 改札を抜け一度だけ振り返り、手を振った。

 両親に後ろ姿を見つめられているのがなんだか居心地悪くて、そそくさとホームへ降りる。

 それでも、ほんの少しだけ胸がきゅっとなった。

 この家を出たくて仕方なかったはずなのに、別れの瞬間になると、なぜかうまく呼吸ができなかった。

 このまま電車に乗ってしまえば、もう、戻ることはできない気がした。

だからかもしれない。

 気づけば、これまでの家族との関係がひとつずつ頭の中をよぎっていた。


 母は、わたしとはまるで違う人だった。

 自分の考えをはっきり言うことは少ない。

 けれどその分、沈黙の中にすべてを詰め込んでいた。

 眉の動き、呼吸の間、ふとした視線の角度。

 それらが母の価値観を雄弁に語っていた。

 世の中の「普通」から外れるものに対して、母はとても敏感だった。

 明るい髪色の若者、テレビに映る同性同士のカップル——口にこそ出さないが、わずかに顔をしかめるその仕草が、すべてを物語っていた。

 わたしの言葉も、そうやって包み込んでは潰されてきた。

 心配という名の拒絶。

 彼女にとって大切なのは「間違っていないか」より、「人からどう見られるか」だった。

 だから最初から話すことをやめた。

 話さなければ、否定されることもない。

 それが、わたしなりの自己防衛だった。


 父は、もっと分かりにくかった。

 必要なことしか話さず、いつもどこか一歩引いた視点で物を語る人だった。

 すべてをわかっているようで、何も受け止めていないような口ぶり。

 悟っているのか、諦めているのか——その境界は、最後まで掴めなかった。

 似ていると思うこともあった。

 人と深く関わるのが億劫で、独りでいるほうが心が軽い。

 それでも、彼と同じように曖昧な言葉で会話を交わすことはできなかった。

 正確な言葉で交わしたかった。

 でも父の言葉はいつも、少しだけずれていた。


 家族は確かに優しかった。

 でもその優しさは、わたしが触れたい場所とは少しずれていて、輪郭がぼやけたまま心の深くまで届くことはなかった。

 だからわたしは、出ることにした。

 どこか別の場所で、「何者でもない自分」でいられる場所を探したかった。

 説明も、同意も、気遣いも、必要としない場所を。


 電車が来るまでの数分、ベンチに腰を下ろしてリュックの紐を引き直す。

 緊張しているつもりはなかったが、指先にじんわり汗が滲んでいた。

 遠くでアナウンスが響いている。

 あと数分で、すべてが静かに変わってしまう。

 繋がれていた鎖が解け、今後の期待とともに、わたしの中で小さな不安が膨らみはじめていた。

 自由は軽やかで、でも少しだけ怖かった。

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