第14話 「異界に連れて行かれるかもしれなかったんだぞ」

 図書室に着くまで、二人の間には沈黙と妙な緊張感があった。

 がらりとテオがドアを開け、ロザリーはその後に続く。いつの間にか慣れてしまったのか、嗅ぎ慣れた古い本の匂いに安堵の息をついた。

 テオはいつもの席に、気だるさを隠さないまま珍しくどかりと腰を下ろす。そして眉間を押さえた。


「……どこから説明したものか」


 逡巡している様子のテオに、ロザリーはぱっと浮かんだ疑問を口にする。


「あの、ウンディーネさんは妖精なんですか?」


 急に妖精と言われても、正直ロザリーにはぴんと来なかった。女は不思議な格好はしていたものの、最初に出会った時からその言動は人間のようだと思っていた。

 ロザリーの頭に浮かぶ妖精とは、小さくて羽が生えていて、そんな生き物である。


「ああ。お前に名乗った名前が本当なら、その女は妖精だ。ウンディーネは水の妖精の一種で、その中でも強い力を持っている。個体名というより、種族の名前だと思った方がいい」


「なるほど……? そもそも、妖精って実在したんですね」


「そうらしいな」


 感心したようにロザリーが言うと、テオはため息混じりに返した。


「えっ、今あの人は妖精だって」


 他人事のような言い方にロザリーが困惑すると、珍しくテオも困ったように眉を下げる。


「妖精、魔力の欠片、結晶が意識を持ったもの、精霊のしもべ、大地の子、夢渡り。様々な呼称がある。だが、その特異性からいるという仮定は長年されていたものの、実在は確認されていなかった。状況、証拠、いるとしか言いようのない現象、これらのことからいるだろうという仮定くらいしか、大陸随一の魔法使い育成機関である学院でも立てられなかったんだ。まあ、塔は知らないが……」


 学院でさえ存在を実証できなかった妖精。そんな存在が自分の前に姿を現したなんて、ロザリーにはどこか実感がなかった。


「そんな珍しい存在だったんですね。でも、私たちは見ましたよね? これってすごいことですよね……?」


 恐る恐る問いかけるロザリーに、テオは頭が痛そうにこめかみを抑える。何か問題があるのだろうかと、ロザリーが首を傾げた。


「僕は用が終わって、図書室に急いでいた。そこで中庭に通りかかり、お前が話している声を聞いた。友人とでも時間を潰しているのかと思ったが、違った」


 一度言葉を切ったテオが、逡巡するように視線を彷徨わせる。いつものテオらしからぬ雰囲気に、ロザリーは段々と不安になってきた。


「……お前は何もない空間に向かって、一人で話していたんだ。僕にはお前の言うウンディーネという女は見えなかったし、声すら聞こえなかった」


「えっ!?」


 ある程度身構えていたとはいえ、予想だにしていなかった言葉にロザリーは素っ頓狂な声を上げる。がたりとテーブルに手をついて、立ち上がった。


「で、でも私、ちゃんと見ましたし、話してたんです!」


 慌てて捲し立てると、落ち着けとテオに宥められた。


「それは疑ってない。あの異界も妖精の仕業だと思えば、説明がつく。異界は様々な呼ばれ方をするが、妖精の国という呼び名もある。それに僕が見えなかったことに関しても、妖精はそもそも魔力の塊だ。人の目に見えるものじゃない」


 その言葉に冷静になって、すとんと力が抜けるように椅子に戻る。


「なら、どうして私は見えたんですか?」


「可能性はいくつかあるが、恐らくお前はあの妖精に目を付けられた。それ以外は可能性としては極めて低い」


「あの人に気に入られたってことですか?」


 確かにロザリーが思い返しても、ウンディーネのあの態度。少なくとも害しようという相手に、あれだけ親しげにしてくるとは思えない。ロザリーが騙されているわけじゃなければ。


「それだけで済めばいいがな」


 苦々しげにテオは言い、口角を皮肉げに上げる。


「妖精は通常、人間に干渉はできない。見えず、触れず、弱い力しか持たないものがほとんどだからだ。それらが人やこちらの世界に何かしようとしても、精々が勘のいい動物を驚かせたり、物が消える程度だ」


「子供の悪戯くらい、ってことですね」


 ほっと息を吐くロザリーに、テオは怖い顔をし、釘を刺すように続けた。


「だがお前が遭遇したそいつは違う。ウンディーネ、伝承にもいくつか記録の残る強力な妖精だ。少なくとも、異界の壁をこじ開け、お前にだけ姿を現したんだ。それだけお前を気に入っている」


「妖精が人間を気に入った時、どういう行動に出ると思う」


 圧の強い低音に、びくりとロザリーは肩を震わせる。だが、ぐるぐると思考を巡らせてみても、皆目見当もつかない。


「……分かりません。私のことはたくさん聞かれましたけど」


 はあ、とテオが今日何度目かのため息をつく。怒っているのだろうか、とどきどきとロザリーの心臓が早い。


「異界に連れて行かれるかもしれなかったんだぞ」


「えっ」


「チェンジリング。妖精が、人間の子供を妖精の子と取り替えてしまうことだ。それだけの力がある妖精なら、お前を連れて行くことなんて造作もない」


 爛々とテオの目が光って見える。言われた言葉の恐ろしさが、ぞくりと背筋に冷や汗を伝わせた。ロザリーは思わず服の裾を握りしめる。


「そんなことーー」


 ない、と言いたかった。だが、あまりにもロザリーはウンディーネについて知らない。悪意がないのは本当だと思いたいが、理由の分からぬ好意は時として恐ろしかった。


「できるだけ、学院で一人になるな」


 先程まで置かれていた状況の恐ろしさにやっと気付いたロザリーの様子に、テオはやっと肩の力を抜く。拍子抜けするほど角のない声に、ロザリーはぺこりと頭を下げた。


「わ、分かりました。その、迂闊ですみません。さっきは引っ張ってくれてありがとうございました」


 流石にあの場で連れて行かれるとは思わなかったが、テオが注意してくれなかっら万が一ということもある。


「ふん、お前が連れ去られたら僕の研究が頓挫する。みすみす実験台を失ってたまるか」


「はは、そうですよね……」


 ふん、と顔を背けたテオに、本人は助けるつもりじゃなかったのだろうなとロザリーは独りごちた。だが結果的にロザリーは助けられている。テオは、周囲が思うような変人ではないのだと、日々印象が更新されていた。

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