第9話 「あれが恐らく異界そのものだ」
放課後。ノックの後にドアを開けて、ロザリーは本棚を抜けた先に進む。今日も図書室には一人を除いて誰の気配もしなかった。
窓は書籍保護のために閉め切られており、周囲には魔法によって灯されたのだろう灯りがいくつか灯っている。
テーブルには、分厚い本がいくつも積まれており、その中心でテオが一冊の本のページをめくっていた。
「……こんにちは、テオさん」
「やっと来たか」
ロザリーが恐る恐る声をかけると、テオは本を閉じる。昨日のようにロザリーがその向かいに腰かけると、テオに訝しげな視線を向けられていた。
「どうかしましたか?」
ロザリーはそう問いかけた後、ふとテオの視線が自身に向けられたものではなく、少し横に結ばれていることに気付く。
「ああ、えっと、私の使い魔です」
慌ててウェルシュを紹介するが、マイペースにウェルシュは欠伸を一つこぼした。
「……ずいぶんと魔力の高い使い魔を連れているようだが」
テオの疑問にロザリーは、恐らく魔法の苦手なロザリーが使い魔を持っているのが不思議だったのだろうと納得する。
「この子は元々祖母の使い魔なんです。入学する前に私と契約し直してもらったんです。私が契約できるような魔力寮じゃないのは、そのせいかと……」
何度も説明しているが、自分で言っていても気分の落ち込む内容だ。ぺろりとロザリーを慰めるように、ウェルシュが頬を舐める。そのくすぐったさに、気分も持ち直した。ロザリーはありがとう、と心の中で礼を言いつつ、とんとんとウェルシュの背中を撫で返す。
「……ふうん、まあいい」
若干の沈黙の後、テオは目を細めてそれ以上は何も言わなかった。そしてテーブルの上から、一つの巻物を手に取る。
「とりあえず、あの日僕たちが見た風景。それについての僕の仮定を説明する」
そう言ってテオは、巻物の紐を解き、テーブルに広げた。古い紙のようで、絵や文字などが書かれている。が、古い言葉なのか外国語なのか、ロザリーには何と書いてあるのか理解できなかった。
「これは、何が書かれているんですか?」
「古い昔話が書かれている。親が子供に読み聞かせるようなものだ」
テオはそのうちの一つの絵を指す。滲んだインクで描かれたそれは、美しい花畑のように見えた。
話と言うからには、挿絵か何かだろうか。読むことのできないロザリーにはどういう内容か見当もつかない。
「この話は、家出した子供が森の中をさまよっているうちに、見たこともない花畑に迷い込む、というものだ」
こん、とテオの指先が机を弾く。
「こういう、この世とも思えない場所に迷い込んだ、見たこともない場所に行ったという話は、いくつも残っている。そして、大抵語り部は一度そこから出ると、二度と辿り着くことはできなかったと締められる」
「そういう話があるんですね」
あまり物語を読んだことのないロザリーは、テオの話に感心しながら相槌を打った。
「大体は創作話だが、中には実際に誰かが体験したものが伝聞され、人に伝わり、文字に起こされ、残っているものもある」
朗々とテオは続ける。ロザリーはそれを聞きながら、学院の授業を少し思い返していた。
「常若の国、あの世、楽園、いろんな呼び方をするが、それらを総称して異界と呼ぶ魔法使いが多い」
「異界……初めて聞きました」
難しい単語が多く出てきたせいか、ロザリーはううん、とこめかみを押さえる。
「そうだろうな、研究者の間で使われている単語だ。そして、僕は先日見たあれが異界の一端なのではないかと思っている」
「あれが、ですか?」
確かに話に聞くような、見たことのないくらい美しい光景だった。だがあの光景は、あの後中庭を訪れた時には消え去っていたのだ。幻覚か何かの魔法だったと言われた方が納得できる。
「あれが異界なんですか? ならあのときは、異界の幻覚を私たちは見たんですか?」
実体ではなく、異界の景色を写し取ったものを見せられたのだろうか。段々と頭がついていかなくなり、ロザリーの頭は混乱し始めていた。
「いや、あれが恐らく異界そのものだ」
「ええっ、異界って学院にあったんですか?」
「そうじゃない」
焦れたようにテオが顔をしかめて、ため息をついた。そんな顔をされても分からないものは分からないと、ロザリーはじっとテオの顔を見つめる。ややあって、不愉快そうに視線を逸らされ、テオは口を開いた。
「……異界は、実際に地続きでいけるような場所じゃない」
「魔法で隠されていたりとか、そういうわけではなく?」
「隠されてはいるが、今はそこは省く。例えば……鏡はあるか」
ぴんと来ていない様子のロザリーに、テオが説明を続ける。求められるがままに、ロザリーは鞄の中から手鏡を取り出してテオに渡した。
「子供がするような話だが、鏡の向こうは違う世界に繋がっている、というおとぎ話や空想を聞いたことは?」
「いえ、ありません……」
ロザリーの返答に、テオは苦虫を噛み潰したような表情をする。
「お前は一般常識が抜けている」
「その点については否定しませんけど、おとぎ話って一般常識なんですか?」
「……うるさいな。まあ、子供の間では流行るんだ。一種の怖いもの見たさだな」
ロザリーは鏡の話については納得できていないものの、怖いもの見たさならば理解できる。子供の多くが当てはまるだろう。
テオが何かを唱えると、手鏡にロザリーの姿が映るように反射させる。そこには当然ロザリーの顔が映っており、相変わらず冴えない顔と感想を抱きつつ、テオと鏡を交互に見やった。
「異界、それは僕たちのいる世界と鏡合わせに存在している。時折こちらの世界と繋がり、向こうに人や物が渡ることもある」
「そこには僕たちと同じように、生き、生活をしている生き物がいる」
「で、でもそれってどうやって証明するんですか?」
想像もつかないような話である。だが、テオの目的は存在するか分からないものを解明することだという。ぱちんとテオが指を鳴らし、その口が微かに動く。その瞬間、鏡の中のロザリーがふっと笑った。
「え、今……」
「逆に、いないということも証明できないだろう」
テオが鏡を一振りすると、息つく間もなく鏡の中のロザリーはすっかり消え失せている。
「それは、そうですけど」
満足したのか、手鏡はふわりとテオの手から浮かび上がって、ゆっくりとロザリーの手の中に収まった。
「話を戻すが、あの時、何かの要因で異界に一時的に繋がってしまったのだと僕は思っている。ひとまずは、状況の再現、もう一度あの場所に繋がらないか、要因の洗い出しをする」
「お前の言っている女も一応、引き続き探しておく」
手鏡を鞄に戻しながら、ロザリーはテオの言葉に頷く。
「お願いします。私も探します」
「ふん、当然だ」
テオは鼻を鳴らし、巻物を丸め始めた。そしてそれが終わると、急にテオが立ち上がる。どこかに移動するのか、それとも今日は解散なのか。分からないままだが、慌てて立ち上がる。
「まあ、あの時は昼間だった。今日は時間の条件が揃わない。明日の昼、中庭に来い」
「えっ、は、はい。いつも友達とお昼を食べてるんですが、一緒でもいいですか?」
ロザリーがおずおずと聞くと、少し顔をしかめたもののテオは渋々と頷いた。
「僕の邪魔をしなければいい」
「分かりました」
アマリアが嫌がらなければ、一緒に中庭でお昼を食べることにしよう。
「今日できることはお前の実力の確認だな」
「私のですか? 申し訳ないんですけど、この前見せたあれが私の精一杯で……」
情けない話だが、あれ以上の魔法を今すぐにと言われても、ロザリーにはきっとできないだろう。
「そんなことは分かっている。だが、前回は屋内だった。周囲に意識が向けば、無意識でも威力が抑制されることもある」
「なるほど……」
ちゃんと考えてのことだったようだ。少しロザリーは安堵した。
「まあ、本当に全力であれだったとしても、全ての属性を見ておきたい。お前がどれだけの実力が欲しいのか、目標を決める必要がある。一旦外に出るぞ」
そう言って踵を返したテオが、図書室の扉へと歩き出す。その瞬間、部屋中のランプが一斉に消えた。
「は、はい! 頑張ります!」
教室を出たテオを追って、ロザリーも慌てて走り出す。
一応学院の施設のはずなのに、自分の部屋のように使っているがそれはいいのだろうか。今度聞いてみようと心に決めて、テオの後ろについて外へと向かった。
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