第3話 「お前もきっと、すごい魔法使いになれるよ」
「ロザリー! あんまり走るとすぐ転ぶぞ!」
からかうような、それでも相手を心配する声色が背を追いかける。
だが、駆け出す足は止まらない。止まれない。色とりどりの花が、一面の花が綺麗で、もっと見たくて、花畑を走るのをやめられなかった。
「おばあちゃん、ウェルシュ! はやくはやく!」
「花を踏まないように気をつけるんだよ」
柔らかい声が、後ろからかけられる。
ーー目に映るもの全てが綺麗で、ぴかぴかしていて、毎日楽しくて仕方なかった。郷愁に胸が詰まる。
手に下げているバスケットには、詰めてもらったクッキーがたっぷり入っているはずだ。お日様はきらきら眩しくて、空には雲一つない。
広い広い森の、広い広い花畑。家からそんなに遠くはないけれど、幼い足ではずいぶんと遠くまで走ったような心地がした。
足がもつれて、そのまま草の中に倒れ込む。柔らかいそれは、自分の足を優しく受け止めてくれた。それでさえ面白くって、くすくすと笑いが溢れ始める。
「ほうら、俺の言った通り」
追いついた声がけらけらと笑った。
「転んでない! わたし、ここに座りたかっただけだもん!」
ムキになって言い返し、頬を膨らませる。また、二つの声が笑った。
ふっと視界がぶれて、景色が変わる。
視線の先には、消えかけた暖炉。ぱたぱたと足をばたつかせると、後ろから腹に腕が回る。椅子の上で抱き抱えられたまま、視線を上げると祖母の顔が映った。
「寒くなったねえ、ほらロザリー。危ないからじっとしていな」
こくりと頷いて、その膝の上で小さくなる。そして、祖母がパチンと、指を鳴らした。
その途端、ごうごうと暖炉の薪が燃え出す。
「すごいすごい! おばあちゃんはすっごい魔法使いなんだ!」
緑がかった毛並みの猫がくあ、と欠伸を一つしながら歩いてきて、暖炉の近くに丸まった。そこを気に入っているようで、めらめらと燃える炎が猫の毛を橙に照らす。
はしゃいでいると頭を撫でられた。温かい手だ。
「ーーロザリー。お前もきっと、すごい魔法使いになれるよ」
そう言って、繰り返し撫でられた記憶がある。
世界はあんなにも輝いて、優しく見えたのに、今はどうしてそう思えなくなってしまったのだろう。大切で懐かしい、今は遠い思い出だ。
「こら、起きろ!」
ずしりと、胸に何か重しが乗ったような感触に、ロザリーは呻く。その息苦しさに重たい瞼を何とか押し上げると、もさもさとした塊がぼやけた視界に映った。
「ロザリー、朝だぞ! いい加減起きろ!」
明瞭になっていく視界で、その塊ーー猫はしゃーっと毛を逆立ててロザリーを起こそうとしている。
「分かったってば、今起きるよ」
ロザリーが眠気に目を擦り、のろのろと体を起こした。そうすると猫はぴょいと体から降りて、椅子の上に着地する。
ぐっと伸びをすると、ロザリーの口から欠伸が一つこぼれた。
「遅刻するぞ、早く起きろ」
猫はゆらりと尻尾を揺らし、じとりと私を見つめる。
「ありがとう、助かったよ」
ウェルシュはロザリーの祖母の使い魔だ。ロザリーの使い魔が見つかるまでの間、代わりに面倒を見てやれと祖母に言われ、街までついてきてくれたのだ。
どうやら話すことのできる使い魔は珍しいらしく、ロザリーと祖母以外の前ではただの猫のふりをしている。まだ使い魔の授業は始まっていないため授業に出ることはないが、たまにロザリーの肩を陣取って学院までついて来ることもあった。
変わった猫だ。
そんなウェルシュは、はあとため息をついてロザリーを見やる。
「ロザリー、昨日帰って来てから様子が変だぞ。おれがいない間に何かあったのか?」
「変? そうかな……」
様子がおかしいと言われ、思わずロザリーは確かめるように自身の頬に触れた。自分では分からないが、幼い頃から一緒にいたウェルシュには何か分かるのかもしれない。
「誰かに、また何か言われたのか?」
ウェルシュの左右違いの瞳が爛々と光り、その尾が膨らんだ。
「今度こそギャフンと言わせてやる。誰だ、おれに教えてみろ!」
今にも暴れ出しそうな気配のウェルシュを宥めるために、ロザリーは膝の上にウェルシュを抱き上げる。
「そんなんじゃないよ。ただ、ちょっと不思議なことがあって、そのことを考えていただけだよ」
ロザリーは男を振り切ったものの、心配になって授業後に中庭の様子を覗きに行った。だが、昼に見たような光景は跡形もなく無くなっていたのだ。全く、いつも通りの中庭だった。
ロザリーが夢でも見たのか、誰かがどうにかしてくれたのか。そもそも何が原因だったのか、何一つ不明のままである。
「私、そろそろ支度しなくちゃ。折角ウェルシュが起こしてくれたんだし」
結局ロザリーは、考えても分からないと結論を出した。立ち上がったロザリーに倣うように、ウェルシュも椅子から飛び降りる。そして若干不服そうに、鼻を鳴らした。
「まあ、いいけどさ。何かあったらおれに言うんだぞ、ヴィオラだってロザリーのこと心配してるんだからな」
「うん、分かってる」
祖母の名前に、思わずロザリーの口元が緩む。次の長期休みには会いに行けないかと、画策中だ。勿論、ロザリーの成績次第である。
ふう、と疲労の滲んだため息を一つ吐き、ロザリーは着替え始めた。
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