第66話:永遠の静寂(第2部完)

川の流れる音の中で、俺とクラウスナーは互いの剣を構えたまま動かずにいた。


彼の赤い鎧が日光を反射して鈍く光り、鋭い眼光が俺を射抜いている。


無言の睨み合いが続く。クラウスナーの剣先は微動だにせず、長年の戦闘経験に裏打ちされた構えに隙はない。


心臓が激しく鼓動している。冷や汗が背中を伝い落ちるのを感じながら、俺は息を整えようとした。しかし、正面からの剣戟では彼に敵わないのは明白だった。雷の剣も、絹布で柄を覆った彼の剣には通じない。


時間が経つにつれ、距離は徐々に詰まっていく。クラウスナーの足音が一歩、また一歩と近づいてくる。俺の手の中でエミールの剣が微かに震えているのは、緊張のせいだろうか。


時間切れだ、と思った。考え続けた打開策はついに浮かんでこなかった。奇跡を信じて正面から剣を交えることしかできなかった。


その時だった。


水が流れる音に混じって、後方から低い地響きのような音が響き始めた。振り向いて確認したい衝動に駆られたが、目の前の敵から視線を逸らすわけにはいかない。一瞬でも気を抜けば、クラウスナーの剣が俺の心臓を貫くだろう。


突然、クラウスナーが剣を下ろした。


「邪魔が入ったようだな」


彼は素早く馬にまたがると、マキャベリア軍に向かって叫んだ。


「陣形を立て直せ! 来るぞ!」


その声が響いた瞬間、俺は後ろを振り返った。河岸を通って多数の騎馬が殺到してくるのが見える。馬蹄の音が大地を震わせ、土煙が舞い上がっている。あっという間に戦場は乱戦状態と化した。


「味方です!隊長!」


レオンの声が戦場の喧騒を貫いて響く。俺の胸に安堵が広がった。味方の騎兵は100騎近くいるだろう。形勢は一気に逆転した。


「テル!ヴァルドフェールに戻れ!水門は必ず開ける!」


その声の主を見て、俺は思わず目を見開いた。カリアだった。栗色の髪を風になびかせ、琥珀色の瞳に炎のような闘志を宿した彼女が、騎兵を率いて戦場に現れたのだ。白銀の甲冑に身を包んだその姿は、まさに戦場に舞い降りた戦女神のようだった。


「分かりました!」


俺は急いで馬にまたがり、ヴァルドフェールへと駆け戻った。馬の背で揺られながら、胸の奥で希望が湧き上がるのを感じる。カリアの力があれば、必ずマキャベリア軍を押し戻して水門を開けてくれるだろう。


馬上から後方を振り返ると、水が勢いよく後を追ってくるのが見えた。水門は開かれたのだ。カリアの約束は完璧に果たされた。あとは、自分の義務を確実に果たすだけだ。


ヴァルドフェールに戻ると、マキャベリアの重装歩兵は奮闘するフィロソフィアの弓兵から50メートルほどの距離まで迫っていた。弓兵たちの顔には疲労の色が浮かんでいるが、彼らは最後まで持ちこたえてくれていた。額に汗を浮かべながらも、その目に宿る意志は揺るがない。


「よく持ちこたえてくれた!全員、丘の上に退避!」


俺が叫ぶと、弓兵隊長が心配そうに返した。


「しかし、隊長は?」


「俺は問題ない。すべて計画通りだ」


俺は内心で渦巻く不安を打ち消すように力強く頷いた。本当に計画通りに行くのだろうか。しかし、それを今考えても無意味なのは明らかだった。


弓兵たちが丘に向かって駆け上がっていく中、俺は束ねた銅線の前の盛り土の上に立った。足元には勢いよく水が流れ込んでいる。マキャベリア軍の重装歩兵たちは足首まで達した水に戸惑いながらも、確実に密集隊形のまま進軍を続けていた。


まだだ。俺は極限まで敵を引きつけたかった。水がもう少し満ちるまで待つ必要がある。しかし、敵はどんどん近づいてくる。


四十メートル。三十メートル。二十メートル。


重装歩兵の鎧が鳴る音に混じって、水を蹴る音が聞こえる。彼らの息遣いまで感じられそうな距離だ。俺の心臓は今にも破裂しそうなほど激しく鼓動している。手のひらは汗で濡れ、エミールの剣の柄を握る手が滑りそうになる。


まだだ、まだ早い。もう少し、もう少し引きつけなければ。


重装歩兵はもはや目と鼻の先まで迫り、敵の顔まではっきりと見えた。兜の隙間から覗く目、汗に濡れた顔、荒い息遣い。全てが生々しく迫ってくる。


戦闘の中心には、合同訓練で戦った騎士団副長の姿があった。巨漢の彼は重厚な黒鉄の鎧に身を包み、胸部と肩部に金色の装飾が施されている。兜の面頬越しに覗く目はこちらを認識したようで、そこには確かな殺意が宿っていた。


十五メートル。十メートル。


俺の呼吸が浅くなる。時間が異様にゆっくりと流れているような感覚に陥る。長槍を持った騎士団副長が隊列から突出して俺に向かってくる。水に足を取られながらも、その歩みは止まらない。重い鎧を着ているにも関わらず、彼の動きは驚くほど素早い。


五メートル。


水は重装歩兵の膝下まで達している。俺は決断した。


「いまだ!」


俺はエミールの剣を銅線の束に振り下ろす。剣が触れた瞬間、世界が青白色の光に包まれた。目を開けていられないほどの眩しい閃光が辺りを照らし、雷鳴のような轟音が響く。


わずかな間の後、ヴァルドフェールに満ちた水一面が爆発したように水しぶきが上がり、爆音が耳をつんざいた。空気が震え、地面が揺れる。まるで神の怒りが地上に降り注いだかのような光景だった。


目の前は水蒸気と水しぶきで真っ白になる。何も見えない。敵の悲鳴と倒れる音が混沌とした空気の中に響いた。金属が軋む音、重い物が水に落ちる音。戦場が一変したのが分かる。


「やったか……」


そう思った瞬間、俺は左肩に強烈な熱さを感じた。まるで焼けた鉄棒を押し付けられたような激痛が走る。目をやると、槍先が肩に深く食い込み、鮮血が噴き出している。痛みで意識が朦朧としそうになる。


前を見ると、マキャベリア騎士団副長が、体から水蒸気を立ち上らせながらも、鬼神のような表情で立っていた。その巨体は雷撃を受けてもなお屹立している。黒鉄の鎧は所々焦げているが、彼の意志は折れていない。


雷の衝撃を受けながらも、彼は最後の力を振り絞って槍を突き出したのだ。その執念に俺は戦慄する。これがマキャベリア騎士団の真の実力なのか。


俺は言葉にならない言葉を大声で叫ぶと、力の限りエミールの剣を振り下ろし、槍の柄を叩き切った。それと同時に、俺はバランスを崩して盛り土から水の中に落下した。


全てがスローモーションのように感じる。冷たい水が体を包み込み、意識が遠のいていく。このままでは溺死する。俺は、体を反転させ、最後の力を振り絞って盛り土の上に這い上がった。


やがて俺は盛り土の上で背中を地面につけて仰向けに横たわっていた。左肩には槍先が刺さったままだ。頭上には、これまで見たことがないほど高く、静寂に満ちた空が広がっていた。雲がゆっくりと流れ、その無限の青さの中で、すべてが静まり返っているように感じられた。


戦いの喧騒も、剣戟の音も、兵士たちの叫び声も、すべてが遠い世界のことのように思えた。俺の中には、ただ永遠に続く青い空があるだけだった。


俺の役目は終わった。フィロソフィアは勝利するだろうか。カリアやレオンたちは無事だろうか。そして、エマは俺の帰りを待っていてくれるだろうか。


宇宙の時間が停止したかのようなその静寂の中で、俺の記憶は途切れた。


(第2部完)

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