第4話 七夕の願い事
桜志館は中高一貫の私立で、中学からエスカレーターで全員が高校に進学する。
外部向けには高校受験を実施していないので、中学で入学した生徒は、通常、そのまま高校を卒業することになる。
教師も中学と高校を分けていないため、中学の担任がそのまま高校の担任になることもあった。
加藤敏文は4年前に大学新卒でこの学校に数学教師として着任し、中学1年の副担任になった。
教育者になる、ということの責任感とわくわく感で胸を一杯にして学校の門をくぐったのを昨日のことのように思い出した。
一流と呼ばれる私立学校で、中学高校という多感な時期の青少年をまっすぐに育てる、という正解のない挑戦。
必ず答えのでる数学とはまったく違った世界だった。
しかし今はもう、なんか、ちょっとどうでもいい気分になったりもしている。
大学の頃、すでに中学受験の小学生相手に塾講師のアルバイトをしていたので、およその感覚は掴めていた。そのつもりだった。
「ちょうどこんな期末前の七夕の頃だったっけ…」
駅までの道すがら、夕方の商店街を歩きながらなんとなく4年前の7月を思い出したのだった。
クラスの副担任として、中学一年のそのクラスのホームルームの時間。
商店街からの要望で、七夕の願い事を笹に吊るして商店街を飾るのを手伝って欲しい、という話があった。
「はい、じゃあ、短冊を書けた人から笹に吊るしてください。終わった人からお昼休みです。」
一人、また一人、次々に短冊を吊るして席を立って行った。
ついこの間まで小学生だった男子生徒の書くことだから、せいぜいアイドルに会いたいとか、サッカーが上手くなりたい、とか、新しいゲーム機が欲しい、とかそんな感じの願い事だろう。
そう思って見てみると、
「コロッケを値上げするな。1個100円は高い。」
「学割縮小反対!これまで通りパスタは学生半額でお願いします」
「学生盛り復活祈願」
商店街の食べ物に対する要求しかなかった。
挙句、
「ベガとアルタイルは15光年離れているので、一年に一度どころか光の速さでも会えるのは15年に一回です。笑止千万。そんなことより学割盛り止めないで。」
などという夢のなさ。
なぜだか、とても涙が止まらなかったのだった。
そんなことを思い出しながら歩いていると、『みんなで短冊に願い事を書こう』という看板が立てられた商店街のイベント会場に桜志館の制服が見えた。
簡易テントの下の会議用テーブルで短冊に願い事を書いているようだった。
近づいていくと、ウチのクラスの生徒だった。
あ、藤宮だ。
加藤が担任をしている高校1年のクラスで委員長をしている。
確か実家がいいところだと聞く。確かに物腰には優美さが垣間見える気もする。
「藤宮、こんなところで。寄り道しないで早く…」
帰りなさい、と言おうとしたところで、彼の左側に数十枚積まれた短冊に目が留まった。
大きな字で、
『おっばいが見たい。生で。』
数十枚が雑に重ねてあるが、間違いなく同じ文言だろう。
「カトビン先生、お疲れ様です。こんな時間まで残業ですか。大変ですね。」
気にした風もなく、堂々と、まるで週末に偶然博物館で出会ったかのように。
「一体何を」
書いてるんだ、と喉元まで声が出掛かったその折り、
「図書館で自習した帰り、ふと見ると短冊を書こう、というイベントが目に入りまして。中一の時にそういえばホームルームで商店街のお手伝いをしたことを思い出しました。」
遠い目をしながら、
「あの時、パスタの学割盛りがなくなる、という噂があったのですが、短冊に書いて吊るしたお陰かなくなることもなく、今もウチの生徒の人気商品です。きっとこの商店街の短冊は効果があるのではないか、と考えまして」
違うよ、商店街の人が怖がったんだよ。あれだけ強く要求すれば商店街だって値上げできないよ。
「なので、今の私の願い事をたくさん書けば、きっと叶うのではないか、と。」
笹の向こう側にいた子連れの母も、こちらに気付き、やはり短冊の山に気付き、内容に気付き、そしてそそくさと出て行った。
「恥ずかしながら私の願いは『生でおっばい』が見たい、ということなのでたくさん書いているところです。」
本当に恥ずかしい。
爽やかな笑顔を見せて藤宮は言った。白い歯がきらり、と光った気がした。
「16歳の健康な男子として『生おっぱい』は目下最大の願いなのです。やはり動画や画像だと質感が分からないのです。『生のおっぱい』こそが正義だと思うわけです。」
もう声を出さないで。
加藤は藤宮の肩に手を置いて、
「そうか、じゃあ終わったら早く帰るんだぞ。」
よし、見なかったことにしよう。
加藤敏文には、4年前に胸に抱いていた崇高な教育理念も、へったくれもなかった。
なんかもう、どうでもよかった。
藤宮。別名、エロ男爵。
彼は純粋にエロかったのだった。
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