第35話 先輩!後輩ができました!

 朝、葦原はマンションの階段を下り、街へ出た。


 初夏の風が頬をなでる。

 空は高く、どこまでも透明だった。


 カフェの前で立ち話をする若い女性ふたりの頭上には、柔らかい布地のような風景がたなびいていた。

 誰かの気配。香り。ひとつの記憶を編み込んだような、穏やかな色彩。


 公園を駆ける子どもたちの上には、虹色にきらめく迷路のような構造体が出来上がっていた。

 笑い声にあわせて、世界観がくるくると形を変えていく。

 遊びと好奇心が、そのまま世界のかたちになるということ。


 交差点で信号待ちをしていた初老の男性の頭上には、古びたピアノの鍵盤が浮かんでいた。

 どこか懐かしい旋律が風に溶け、葦原の耳にだけ届くようにささやいた。


(誰かの人生が、こんなにもそばにある)


 彼は静かに深呼吸する。


 世界観は「見るため」にあるのではない。

「見ようとするため」に存在する。


 これまでのこと。そしてこれからのこと。葦原は、教わって来たのだ。

 理世や、建早や、出会ってきた人たちが、それを教えてくれた。


 ふと、スマホが震える。

 福祉事務所から、今日の訪問予定が届いた。


(今日は、三件……でも、怖くない)


 葦原は歩き出す。

 通りのあちこちに浮かぶ無数の世界観を見上げながら、そのどれもが、

「声を聞いてほしい」と静かに揺れているように思えた。


 世界は、変わった。

 でも、それをちゃんと見て、触れて、寄り添おうとする人間がいる限り、

 この変化は、恐怖じゃない。

 葦原は、福祉事務所に向けて歩き出した。

 信号を渡って通りを曲がり、歩き続けて福祉事務所に辿り着く。

 福祉事務所の空気は、より忙しく、より繊細なものに変わっていた。


「おはようございます!」

「おはよう」

「おはよー葦原くん」


 同僚に挨拶をしながら、葦原がデスクにつく。

 書類を整理していると、事務所の入り口をノックする音が聞こえた。

 ガチャリとドアが開く。


「おはようございます!」


 葦原は、驚愕の表情でドアの所に立っている人物を見つめた。

 建早が立ち上がり、咳払いひとつして、葦原に紹介する。


「葦原、お前に紹介する。特任世界観福祉士および共鳴型認知支援士として、今日からこの事務所に配属された……」


 人々の頭上に浮かぶ世界観は、共鳴し、触れ合い、時に重なりながら、個の形を保ちつつ、他者と響きあうものへと進化していた。

 それに伴って、新たな職種が生まれたのだ。

 その第一号として、彼女はやってきた。


「建早理世です。よろしくお願いします、葦原八千矛先輩」


 葦原は、目を丸くして理世が差し出した手を見つめていた。ややあって、戸惑いながら、しかししっかりとその手を握り返す。


「こっちこそ……あの、僕、感激してます!」

「ふふ、変わってないね」


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