第33話 絶対の味方
「な、なによあなた!」
突然の疾風の如き闖入者に侯爵夫人が眉を吊り上げ、オルガに掴まれた手を振り払う。
ユフィの前に立ったオルガは一切臆することなく平然と侯爵夫人を睨みつけたあと、ユフィに振り向いた。
いつも以上に俯いて、顔色も悪く、自分を見て驚いている。そんな姿を見て胸が痛み、けれどどうしても胸があたたかさを感じていた。
「ユフィ殿。お顔の色が優れません。部屋に戻りましょう」
「ぇ、あ……」
その体はまだ少し震えている。それまでよりも顔色が悪く見えるのはどうしてか。
ユフィの視線が自分の背後に向いたことで、オルガは内心でため息を吐いた。
「ちょっとあなた。いきなり割り込んでくるなんて無礼ではなくて? これだから――」
「これだから獣は――か?」
遮って、返されたのは冷え切った音。再び背後へ振り向けば、もう、そこにぬくもりはない。
冷え切った眼光と読めない声音。冷えたと思っていた空気がさらに冷えて緊張と震えを生み出し、貴族の中には足を引く者もいた。
後ろのユフィから気遣うような視線を感じる。それだけが今あるぬくもりで、それでもオルガは視線を戻さない。
その眼光に呑まれた侯爵夫人は息を呑んだ。怯んだ相手だろうがオルガは気に留めない。
「これ以上ユフィ殿をこの場におく必要はないと判断した。故に失礼する。それだけだ」
「そっ、その子は我が家の娘ですのよ? 久方の水入らずに無粋だとは思わなくて?」
「ほお……。つい今しがた自分がなにをしようとしたのか忘れたか?」
「なんですって?」
睨み合い。けれどオルガはどこまでも余裕で臆せず、侯爵夫人には怯えが見られる。
腸煮えくり返る想いをなんとか制御しつつ、オルガは侯爵夫人と貴族一同を睨みつけた。
「オリバンズ国は、王家の意向に合わせ国の貴族揃ってユフィ殿を丁重に扱う心づもりだ。ユフィ殿の体調が優れぬようであれば早々に部屋に戻って一切を遮断して静養させるようにというアルヴェスター王太子殿下からの命令に従い、ユフィ殿をお連れする。これ以上、ユフィ殿の心を傷つけるのはやめていただこう」
「傷つける? 私たちは彼女に身の程を弁えるようにと――」
「弁えるべきはそちらだ。ユフィ殿はそちらでの立場にはすでにない。すでに理解しているのではないか?それとも――今のこと、我が国の王太子殿下にお伝えするか?」
平然とされる脅しに貴族の誰もが口を閉ざした。侯爵夫人も悔し気に口を閉ざす。
それを見てオルガはすぐに振り向いた。
普段聞かない声音。驚いても恐ろしくはなかったユフィは、振り向いたオルガを俯きながら見上げた。
「ユフィ殿。部屋に戻りましょう」
「で、ですが……」
「我々は、あなたの身も心も守るよう殿下から仰せつかっております。殿下の大切なあなたになにかあったとなると、我々があとで殿下に叱られてしまいます」
そう言って、困ったような顔をする。だからユフィも困ってしまった。
ちらりと振り返れば、疾風のように来てくれたオルガと同じように、オリバンズ国陣営の前にオルガの部下たちが出てきてくれている。ユフィがそっと振り返ると誰もが勢いよくぶんぶんと首を縦に振る。
さらに困ってしまったユフィは、それでもなんとかオルガを説得しようと言葉を紡いだ。
「で、ですがわたしは、停戦の…協定のために……」
「それは現在、両国の殿下と重鎮方が揃って会議中。あなたが一人で背負うものではありません。あなたと同じように皆も背負っています。あなたには味方がいます」
そう言われ、目を瞠った。
ずっとずっと独りだった。痛みも孤独も、罵倒も蔑みも。周りに誰かがいたことなどない。
だから味方なんて、考えたこともなかった。
以前にもオルガはそう言ってくれた。けれどその言葉は現実味がなくて、実感もなかった。
痛みは自分が受けるもの。助けはない。耐えてやりすごす。それが常で、変えようのない現実。
けれど、オリバンズ国ではそんなことは一切なかった。
公爵邸ではエラゼやダリオスを始めとする使用人たちが。この滞在屋敷ではアルヴェスターや護衛騎士たちが。今の茶会ではケミティや令嬢たちが。
そして今――
(オルガ様が、前にいる……)
助けてくれたとき、当然のように自分の前に立って背中を向けていた。
昨夜も危険な状況だったのに一瞬のうちにそこにいて。手を上げられそうになった今もまた当然のようにやってきて、話の最中にも割入ってきてくれた。
護衛のため。それでも、守ってくれた人は初めてで。
今だって、両国の目があるからオルガの声音は仕事のもの。
だけど解る。その眼差しはいつだって、優しくあたたかい、公爵邸で過ごす中でくれるものと同じ。慣れなくて、落ち着かなくて、胸が苦しいほど、満ちているもの。
「――…オ、ル…さ……み、た……?」
言葉が、うまく出せない。あまりにも小さな、頼りのない声になってしまって。
無意識にこぼれて。喉の奥が絡まって、ひどく苦しくて。妙に視界まで滲んでしまうのは何故だろう。
傍にいてもうまく聞きとれないような、か細い声。――けれどそれを、逃しはしない。
「――ええ。もちろんです。あなたが離れろとおっしゃられても、私がお傍でお守りいたします」
膝をついて、君の目を見て伝えよう。
俯くユフィに残った右目は、豊かな自然のような、森の中の澄んだ泉のような、美しい翠。獣人たちの好きな色。今はそれが揺れていて、抱きしめたくなって仕方がない。
その瞳から涙がこぼれないうちにオルガは立ち上がってユフィを部屋へと促す。ユフィも逆らうことなく身を翻した。
オリバンズ国貴族婦人や令嬢たちの眼差しは痛みを孕むものであったり、気にかけるものであったり、怒りをみせるものであったり様々だ。
胸中を落ち着かせながらユフィを連れていこうとしていたオルガだったが、その耳に邪魔が入った。
「お待ちなさいな。ただの護衛騎士が茶会の邪魔をするなんて、これがオリバンズ国のやり方なのかしら? 停戦協定のためにわたしたちはその子をそちらに
「そうですわ。茶会は社交の場。そこに騎士が割り込むだなんて無粋だこと」
「マナーのひとつも理解なさっていないのかしら?」
「そちらこそ、その人の意味がご理解できていないのでは?」
くすくすと笑う声が聞こえる。非常に不快な音だ。
瞬間、ユフィの肩が跳ね、歩く二人の先にいる護衛騎士たちが顔色を変えて青白くなった。耳が立ち尻尾の毛が逆立っているのがよく見える。
胸中が冷え切るのが自分でも分かった。その声も、匂いも、すべてが不快でたまらない。
茶会の会場に風が吹く。少し荒れたような風はドレスをひらめかせ、花の傍で飛ぶ蝶がバランスを崩す。オルガの足元で草が怯えるように揺れ、獣人だけが感じ取れる僅かな振動が地面から伝わってくる。
(……さすがに、これは殿下に怒られるな)
目の前ではおろおろと部下たちがうろたえ、獣人の婦人や令嬢たちも顔を引き攣らせている。ケミティだけは微笑みで自分を睨んでくる。
「鎮めなさい」
オルガの耳がケミティの忠告を拾う。
後ろの人間たちへの影響など興味はないが、ケミティの言葉はもっともなのでオルガはふっと息を吐いた。
風が止み、蝶がほっとしたように花に止まる。足元の振動が収まり獣人たちがどこかほっとしたような顔をする中、ユフィはそっとオルガを見上げた。
「いま、なにか……」
問うような目に微笑みを返す。今はまだなにも答えず、オルガは振り向いた。
そこにあるのは、腰を抜かしたノーティル国の令嬢や婦人たち。一同顔色が良くないがオルガはそんな面々に淡々と答えた。
「私も驚いた。――目の前で一人の人間が傷ついているのをさも当然のことだと見ているだけで、庇い助けもしない者がいるのだということに」
「! なんですって?」
「あなたたちはまだ知らないようだけど、その子は――」
「ユフィ殿は素晴らしい人だ」
さして強くもない、けれど場を制する音に誰もが口を閉ざす。
視線が引かれ、けれどその目はどこまでも冷たく恐ろしく、逸らしたくなってしまう。手に汗が滲んで呼吸が乱れそうになる。
目まぐるしく変わる空気にもユフィはただ不安げにオルガを見つめ、オルガはただ敵を睨み続けた。
ノーティル国の貴族婦人令嬢たちを見遣り、オルガは淡々と告げる。
今の自分が護衛騎士であろうとも、場に割り込むことが求められない立場であろうとも――群れを守るのは長の務めだ。
「あなた方はそれが理解できていないようだ。――言っておく。我がオリバンズ国は獣人の国。そして我々獣人は、同胞たる民への侮辱を許さない。傷つく同胞を放置するなどありえない」
張りつめた圧迫感を感じさせるその存在は、あっさりとまた身を翻す。驚いた顔をするユフィに視線を向けて歩みを進めれば、もう、後ろから声がかかることはなかった。
オリバンズ国陣営に戻ったユフィを婦人や令嬢たちが心配そうに取り囲む。そんな様子をユフィの傍でオルガは見つめた。
ノーティル国の面々にああ言った手前ユフィはすぐに部屋に戻すつもりだが、ユフィを心配してくれる者がいることは喜ばしい。
そう思うオルガの傍である令嬢が意を決したようにユフィを見つめ、真剣な声音で静かに告げた。
「ユフィ様。……ごめんなさい。私、あなたを侮っておりました。ノーティル国から来た人なんて、って、心の中ではずっと……」
一人が打ち明けた本心に周りの令嬢たちも数名視線を下げる。そんな様子をユフィはなんと言えばいいのか分からず戸惑って見つめるしかない。
今の婦人令嬢たちはユフィに好意的だ。それはアルヴェスターの指示があることと同時に、ノーティル国という敵と戦うためでもある。
演じているそれに誰しもが本心を混ぜているわけではない。
(それは当然のこと。わたしは敵国の人間で、皆さまにとってよくない相手だから……)
好意的に接してもらえることは嬉しい。それが演技でも、それでも。
心が喜びを感じていたから、だから少しだけ寂しさを感じても怒りなどあるはずがない。
「ですけど――……その、今度、よろしければ我が家の茶会にご招待しても、よろしいかしら?」
「え……」
「あなたはあちらの方々とは違うわ。だって……否定してくださった。披露目のときも、我が国のことを学んでいるご様子だった」
目の前の令嬢が兎の耳を可愛らしく傾けて、どこか照れたような笑顔でユフィを見つめる。そんな、見たことのない、向けられたことのないそれに、ユフィは僅か目を瞠った。
「だからその、だめ、かしら……?」
「え、えっと……」
招待は嬉しい。だけれど不安も大きい。
不快なことをしてしまわないか。食事作法もおぼつかない身では失敗してしまわないか。自分で勝手に決めてしまっていいのか。
分からない。どうすればいいのか。
だから迷って隣をちらりと見上げる。視線だけで迷いを見てとったオルガは優しく肯定を返した。
「お受けしたいお気持ちがあれば、それでよろしいと思います。殿下もお喜びになられるでしょうし、そのときは私が護衛として同行いたします」
「あ、ありがとう…ございます。……えっと、では、その……お受けしても、よろしいですか?」
「もちろんですっ!」
「まあ! ユフィ様。是非我が家にも」
「今度の夜会でももっとお話しましょう?」
確実に変わった空気。それが嬉しくて喜ばしくて、オルガは口角を上げた。
ユフィもまた周りで笑顔になってくれる獣人たちを見て、緊張した様子のままだけれど、どこか嬉しそうに仄かに微笑んでいる。
そんな令嬢たちを婦人たちもどこか微笑まし気に見つめるなか、ケミティが軽く手を打った。
「はい。皆さん。ユフィ様は念のためお部屋でお休みになられるから。今はここまで、ね?」
「はい」
皆が素直に頷く。当然のようになされるその行動に少し驚きつつ、ユフィはそっとケミティを見た。
ケミティは微笑んでユフィを見つめ、静かに頷く。それを見てユフィも頭を下げると「ユフィ殿」とオルガにそっと背を押された。ユフィは一同に深々と頭を下げて場を後にした。
(今度のお茶会、それに夜会……。なにかを楽しみに思うなんて初めて……)
怖くてたまらなかった胸の内は、今はすっかりあたたかい。
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