第5話

 空が、真っ白に変わった。身体を起こして、動かせたことで、私は悪夢から目覚めたことを悟った。悪夢から現実への移行はいつもこうだ。人々は、夢を現実感のないものとして語るが、私にとっては、もう一つの現実である。


「おはよう。実に三日ぶりの起床だ」


 声の方を見ると、書類に目を通している赤髪の女性が据わっていた。彼女は、話しかけた癖に、私には目を向けていなかった。彼女が咥えている煙管らしきものからは煙が溢れ落ち、爽やかな香草の香りが漂っている。私が呆気に取られているうちに、彼女は書類に何か文字を書きこみ、ゆっくりと私に目を向けた。


「君の容態とはすっかり顔馴染みだが、君の人格とは初めましてだ。私はローデス。君の担当をすることになった医者だ」


 確かに彼女は白衣を纏っていたが、彼女の白衣は、過去にレーチヤを訪れた医者のものとは違う。何らかの金細工が施されており、医者というよりは神職のように思えた。


 もっとも、その高貴そうな白衣は、彼女にとってあまり重要なものでもないらしい。肩に被せているだけで、ずり落ちてしまいそうになっている。


「君の容態。とてつもないものだな。膿垂症を始め、鳥肌脹に油漏症。雷鳴宿に、暗膜剥と――まるで症例の大売り出しでも見ているかのようだった。その他にも足や腕、身体中に外傷。命に別状のないはずの病の群れで、君は命を落とすところだったぞ」


 耳馴染みのない病名もいくつかあるが、多くの病気を患ったこととは自分の意識の中にある。自らの身体を見回すと、腕や足には包帯が巻き付けられているが、そのどれもが清潔に保たれていた。試しに胴の包帯を少し浮かせてみたが、不快な膿の感触はない。


「普通に生きていれば、罹るはずもない病気たち。君には免疫力、病に抵抗できる身体のエネルギーが不足していた」


 ローデスと名乗った女医は、淡々と物事を語る。他人事ではあろうけれど、こんなに熱のない医師は初めてだった。普通、医者というのは、優しさで出来ているかのような喋りをするものだろう。医者が普段、そうでなかったとしても、患者を目の前にすれば、少しは気に掛けるはずだ。担当した患者とあれば、なおさらであろう。だが彼女は、私の心より、病を治すことに興味があるようだった。


カツカツと書類に書き込んでいた手がふと止まり、ローデスの目が再びこちらを向く。


「そうだ、君。名前は?」


 ようやく聞いてきたことは名前であった。わずかに呆れを感じながら、私は答えた。


「メルン。――ねえ、私、お金なんて持ってないけど。何が目的?」


 聞くと、ローデスはきょとんとした顔をした。こんなことを聞かれるなど、想像もしていなかったのだろうか。しばらくして、そうか、と彼女は呟き、楽しそうに頷いた。


「君は――子供にしては聡いな。確かに、治療に対しては対価が発生する。それが世界の常だ。だけれど、ハウゼではその常識は当てはまらない」


 ローデスは窓を開けた。ハウゼ、この街の清潔と爽快に満ちた空気が流れ込む。逃げていたときは、そんな余裕もなかったが、この街は常に何かしらの香草――いや、恐らく薬草なのだろう――肺から胸が救われるような、清涼な香りに満ちている。


彼女は風で滑り落ちた白衣を、左の腕で受け止めると、パイプを口から離した。


「医者の街ハウゼでは、病の治療が使命であり、報酬なのだ」


「――医者の街?」


 思わず聞き返すと、ローデスは眉根を上げる。


「驚いた。君はそれも知らずにここまでやってきたのか。どうやら相当なワケありらしいな。是非とも詳しく聞きたいものだが――さて、私は君の信頼に足るか?」


 彼女の言葉に、私は目を逸らした。医者の街。確かに、医者の街であれば、私のこの性質を治す方法も見つけられるかもしれない。だが、恐らくではあるが、この街は病に満ちているはずだ。私が罹っていた病気の悪化もそれが原因だと思われる。


 とすれば、私の特性はきっと病の治療にひどく役立つものだろう。一種の万能薬、最良の検体。誰にも自らの経歴を話してはならない、そう口を閉ざすしかなかった。


「その様子を見るに、まだ信頼は得られていないようだ。結構。君のように疑り深く、慎重な子供は好ましい。医者に向いている」


 ローデスはそんな決意を知らず――いや知っていても恐らく興味がなくて――軽く言葉を流し、関係のない感想を漏らした。その言葉に、私はつい、聞いてしまった。


「医者になれば、新月病を治せるわけ?」


 私は軽い気持ちで聞いたのだが、ローデスはその言葉に目を丸くした。今までの緩慢な動きはどこへやら、彼女は身を乗り出して、そのまま、険しい顔で私の目を覗き込む。私は少し、身を引いたが、恐ろしさはなかった。だが、私自身の人格とやらを覗き込まれているようで、自然と身体がこわばってしまう。


「君には――救いたい人がいるんだな。訂正しよう。医者になる能力があり、医者になる理由がある。君は、放っておいても医者になるだろう」


 ローデスは再び身を起こすと、何もなかったように白衣をだるそうに羽織った。


「治せる。とてつもない時間と労力と覚悟が必要だが、君は将来的にそれを得る。だろうけれど、今は自らの身体を癒すことが重要だ」


 何を根拠にしているのか、残り短い未来の話を、この女医は少し楽しそうに話した。医者の街と言えど、人手でも不足しているのだろうか。しかし、私はそこまで興味がなかったので、緊張した身体を解すように、身体を揺らした。


 彼女はその間、様々な医療道具を取り出してくると、ベッド隣の台に置いた。


「覚醒した君の容態を観察させてくれ。それが報酬なのだから」


 見たことのない医療道具の数々に、孤児院時代に見た瀉血の光景を思い出す。


「――拒否したら?」


 駄目元で聞くと、ローデスは準備を進めつつ、答えた。


「拒否はできまいよ、その身体ではどこにも逃げ出せないだろう? 思ってもない質問をするもんじゃない。それはからかいと言うのだ」


 それは確かにその通りだ。ただ、もしかしたら恐ろしい目に遭うかもしれない未来を止められるかと聞いただけ。一方のローデスは楽しそうにカラカラと笑っていた。


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