星鏡記憶 ──名を贈るたび、風は記憶になる The Resonance of Forgotten Winds──

TA-KA

序章 星鏡の目覚め

 風が、音もなく赤い地表を滑っていく。

 その流れには、熱も冷たさもなかった。ただ、記憶の粒子が含まれていた。


 惑星エンシア。


 銀河中心を隔て、地球の正対軌道に存在する“相似惑星”。

 この地はかつて、誰の記憶にも刻まれていないはずの「地球」のもう一つの姿を抱えていた。

 今はただ、静かに眠る星だ。文明の痕跡も、植生の名残もない。しかし、全てを失ったわけではない。


──この星は、映す。記憶を、過去を、そして未来を。


 記録守アマナ・スフェラは、緩やかに着地した重力用スーツの足裏で、赤砂をわずかに踏みしめた。

 空は、くすんだ灰色。大気圧は保たれているが、音を伝えるには足りないほど希薄だった。それでも彼女の耳には、何かが囁くような感覚があった。


「量子共鳴、観測域に到達……座標固定」


 ヘルメット内のインターフェースが淡く光り、視界の右端に緩やかに波打つ曲線が現れる。それはこの惑星に満ちる“記憶粒子”の揺らぎを示すデータだった。


「反応コード……識別不能。同期時間軸、複数」


 彼女は視線を細める。

 顕現が始まる兆し──地球の記憶が、別の時間軸から呼び出されようとしている。


 この星では、“記録”とは保存された映像ではない。それは、記憶のなかで“未解決の問い”を宿したまま、今なお揺れている想念。時間を越えて、意識の残響として、この惑星に顕れる。


 アマナは足元の砂を掬い上げた。指先に触れた粒子が、細かく震えている。まるで、彼女の存在を“読んでいる”かのように。

 これは、この星そのものが持つ意志だと、彼女は直感していた。


いや、星ではない。地球の、もう一つの意志”だ。


 ふと、視界の先、赤い地平の彼方に、淡く揺れる光が見えた。ひとつの、篝火のような灯り。ありえないはずの風景だった。ここには燃料も、酸素も、火を灯す者もいない。


 けれど確かに──そこに“火”があった。


 彼女は、ゆっくりと歩を進めた。砂地を踏みしめるたびに、微かな残響が神経に触れる。言葉にならない囁き。視えない誰かの視線。


 火がゆれる、その前には、座る者の影があった。

 老いた顔。獣の皮で身体を覆い、粗く編まれた石斧を手にしている。言葉を持たぬ頃の人間。

 おそらく、クロマニョンの記憶だろう。けれどその瞳だけは、どこか“今”を見ていた。


 アマナは思わず足を止めた。


──なぜ、彼はわたしを見ている?


 その顕現体は、ただの過去の残影ではなかった。アマナの存在に反応し、“今”の地球とリンクしている。まるで、彼女の中の何かを読み取っているかのように。


 この星が記録するのは、事象ではない。


 意志だ。


 願い、迷い、希望、罪。そのすべてが粒子に変換され、時間軸を超えてこの惑星に保存されている。


 記録守とは、それを“読む者”ではない。それを感じ、次へと繋げる者だと、彼女は知っていた。


「記録を開始します」

 その言葉を発した瞬間、揺れる火が淡く波打った。

 風がひとしきり流れ、空の色が変わる。


 上空、灰の中に、ひとつの月が浮かび上がっていた。

 赤く、深く、まるで血のように濃く。


──紅月。


 地球の記憶が、この星で具現化した、象徴的な存在。

 この月が昇るとき、世界は“深層同期”に入る。


 火のそばの男が、ゆっくりと立ち上がる。言葉を発しない彼が、アマナの方へ手を伸ばそうとする──その瞬間、視界が割れた。


閃光。


 世界が、一瞬にして白く塗り潰された。

 アマナの身体は、その光の中で一歩も動けなかった。


 その光の中心に、誰かが立っていた。

 姿は視えない。ただ、強烈な何かの存在感が、脳内の深部へと流れ込んでくる。


 音もなく、ひとつの言葉が、アマナの中に“響いた”


 『──おまえは、誰の記憶なのか?』


 それは、この惑星──いや、地球そのものが、彼女に問うているようだった。


 問いの余韻が残るなか、光は静かに収束していく。焚き火も、男も、赤い月も、すべてが淡く霧のように消えた。


 残されたのは、静けさだけだった。


 アマナは深く息を吐いた。

 顕現は終わった。だが、それは始まりでもあった。


 地球は、まだ語られていない。

 過去も、未来も、この星を通して、今なお語ろうとしている。


 彼女は静かに立ち上がり、頭上の空に目を向けた。

 そこには何もなかった。けれど、確かに“見られている”感覚があった。


──地球に。

──この星に。


 そして、まだ目覚めぬ“記憶のすべて”に。

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