1 延宝元年 三井高利 番傘と「信」
延宝元年(1673年)、春雨の続く午後。
軒下から通りを見つめていた三井高利は、じっと顎に手を当てていた。
「売れぬ。見てもくれぬ。」
その事実だけが、日ごと胸に重くのしかかっていく。
軒から滴る雨が、路地の石畳を叩いていた。
上方での商いを長男に任せ、江戸に望みをかけて下ってきた。
だが、商いは思うようにいかない。
上方で築いた名声も、江戸では通じなかった。
品は良い。色柄も京の目利きに敵わぬはずがない。
それでも客は、老舗ばかりを訪ねる。
「三井?知らぬ名だな」「帳面、あるのか?」
言葉の節々に滲むのは“信用”のなさ。
江戸において商売とは帳簿の上で成り立つもの。
掛け値、帳付け、得意客。
客の屋敷にあがりこんで品を見せ、交渉し、“あとで支払う”ことが、店と客の関係を形づくっていた。
「…目の前の人に、売ることすらできぬのか。」
雨音が一層はげしく板戸を叩く。
空を見た。
薄灰の雲が、まだ降るぞ、とばかりに重たく垂れ込めている。
通りを歩く町人たちが、店の軒先で雨宿りをしていた。
誰もが濡れるのを嫌い、目的地まで足を止める。
高利の目に映ったのは、傘を持たぬ武士の姿。
羽織はすでに濡れ色を変え、無言でただ進んでいく。
ばしゃばしゃと立つ足音が、焦りをかき立てるようだった。
その夜、高利のもとに手紙が届いた。
差出人は、父・三井高俊。
中には、古びた和紙とともに、くすんだ青い巻紙が入っていた。
>>利よ、江戸という新しき都は、道理の外にある理を求める地だ。
世の常識に倣うな。見えるものばかりではない。
見えぬものに耳を傾けよ。
勘定奉行所の古き縁から紹介状を承った故、城下の者に見せれば、かの者に会えるだろう。 知恵は毒にもなる。心して問え。<<
高利はしばし、手紙と図面を見つめた。
江戸城裏門の奥、石垣の先に示された“口”。
次の夜。 高利は、紹介状を懐に、城裏手の古い門へ向かった。
門番は紹介状を見るとはっとして高利の顔を見る。
高利の憂いを察したのか、無言で頷き、石畳を照らす松明を手渡してきた。
案内もなく、独り、地下へ降りる。
思った以上に深い石階段。
ひんやりとした空気。苔の匂い。
灯が照らす先に現れたのは、広く清潔な空間だった。
「牢」と呼ぶにはあまりに整いすぎた空間。
白い紙飾りがついたしめ縄が幾重にも巡らされている。
その中央に坐す、白髪の男。
年齢不詳、穏やかでいて深い眼差し。
まるで、千の時を経て、そこにいるような気配だった。
「三井高利か。…何を問う。」
「なぜ、私の名を。」
男は、ふむとつまらなそうな顔をした。
「問いたきは、そのようなことか。」
「いえ…売れぬのです。」思わず口をついて出た。
「品はある。質も誇れる。だが、この町の者は、わたしを“見ていない”のです」
男は目を細めた。
「与えることで己を浮かび上がらせることができよう。」
「与える…?施しをせよと?」
「違うな。信を先に“投げる”のだ」
「…信を、投げる?」
男は立ち上がり、紙を広げた。
そこには、雨に濡れた江戸の町と、軒先に傘を掲げる小さな商家の絵が描かれていた。
「この町は、雨が多い。傘を貸せ。人は、“借りた”と思えば返すべきと心に刻む。それが“信”のはじまりとなる。」
高利は首を傾げた。
「タダで貸せば、傘は戻りませぬ。」
「それも信なのだ。返されぬなら、それがそなたの“信”だ。そして、返された傘は店の“信”の数となる。店名を傘に記せ。「借り傘」と一目で分かるものを、我が物顔でさし続け、借り続けておいて恥じない者がおろうか。雨が降るたびに、傘に記されたお主の店名が、江戸の町に広がる。」
「…信をまず預けよと?」高利は問いながら、江戸の町中に己の店名を記した番傘がひしめく画を思い浮かべ、にわかに高揚した。
「信のない品は、ただの布切れと心得よ。」
高利は、そう言った男をじっと見つめた。
「ならば、傘を貸しましょう。ただし、貸すだけでは終わりません。信を返した者に、商いを始めるきっかけを見いだします」
男は微笑んだ。
「やがて、お前は“信と銀を差し出す”という境地に至るだろう。だがそれは、また別の問いだ。今は、先に信を与え“返ってくる喜び”を知れ。」
高利は、翌朝から傘を並べた。
「雨の日はご自由にお使いください。お代はいただきません。返却所はこちら。」
町人たちは訝しみながらも、傘を借りていった。
だが、三日経っても、一週間経っても、戻る傘は少なかった。
番頭たちは眉をひそめ、口には出さずとも冷ややかな目を向けた。
(やはり無謀だったか…)
その夜、雨音が軒を叩くなか、店先に一人の女が立っていた。
「…お借りしていた傘を。どうしても届けたい品物があり、昨日は助かりました。」
その手にあったのは、三井と記された傘。
「…ありがとうございます。」
高利は、深く頭を下げた。
傘一本。
されど、それは、はじめて“信が返ってきた”瞬間だった。
数日後、戻された傘は十を数えた。
中には、菓子折りを添える者までいた。
高利は再び、江戸城の【地下牢】へ向かった。
「戻ったか、三井の。…何を問う。」
「“信と銀を差し出す”—その意味を、お教えください。」
男は、静かに結界の奥へ手を伸ばし、ひとつの文字を見せた。
「値札を示せ。客に“疑念を与えぬ”という証。公平を示す道具であり、“掛け値なし”その場の信による約束だ。」
「…ならば、すべての商品に貼りましょう。現銀で、同じ値で。誰もが堂々と、選べるように。」
―“信と銀が差し出される”ということか。―
高利は、深く頭を垂れた。
こうして、「現金安売り掛値なし」の精神が芽吹いた。
高利は得意先を訪ねる「屋敷売り」から「店頭売り」に切り替えた。
店頭の品にはすべて値札をつけ、現金払いのみとした。
得意先であろうが一見であろうが同じ品は同じ価格。
貸し倒れリスクや集金の労力がなく、競合よりも安価で品を提供できるようになった。
「あの貸し傘の三井」「現金安売り掛値なし」「町人でも買える品」
九尺ばかりの狭い店はあっという間に繁盛した。
当時の店の様子を高利の三男は「千里の野に虎を放つ勢い也」と評したという。
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