第26話 見えないもの1

 夜の帳が落とされた街は薄暗く、所々にある街灯が頼りなく揺れて、その度僕らの影はゆらりと踊った。


 ヒワエ領の中心部にあるこの街はそれなりに栄えているため、冒険者ギルドが経営する宿もあったが、勇者としての仕事ができていないとして、ユフィアは民間の宿に泊まろうと言った。それが彼女の精神衛生上良いと言うのならば僕は一向に構わない。


 チェックインを済ましてくれたユフィアが鍵を持って来てくれた。


「二階の部屋だそうだ」

「そうなんだ。ユフィアは? 同じ階?」

「はあ? なにを言っている。同じ部屋に泊まるんだぞ」

「ああ、そっか」


 と頷き鍵をもらって立ち上がったところで


「ああ!? そうなの!?」


 驚きを口にした。


「相部屋の方が安上がりだろう? それとも、なんだ、わたしと一緒は嫌か?」

「いえ、滅相もございませんけど」


 ユフィアの方は気にならないのだろうか。まあ、実際勇者としての扱いを受けずに泊まろうとしたら少しでも安い方がいい。僕らは川に落ちて銀貨が数枚ポケットに入っていた程度なのだから。


「一緒に風呂に入った仲だろう?」


 それはそうなんだけど、でもあれは望んで一緒に入ったわけではない。そのあと一緒に寝たけれども、それもお互いに一緒にいたかったからそうしたわけではなかった。テントでの野宿もチェネルとヴォルがいたから気にならなかった。


 二人でお互いの意思を確認した上で同じ部屋に泊まるのは初めてのことだ。なんだかすごく緊張してきた。そうだ。まずは一階で色取り取りのバスボールを選ばなければ。こういうのは女の子と一緒に選んだ方がいいってクラスメイトも言って……違う違う! これは前世の記憶だ! なに急にいかがわしい気持ちになっているんだ。冷静になれ!


「なにをやっているんだ。早く行くぞ」


 僕はユフィアのあとを追って階段を駆けて行った。

 ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは大きなベッドだった。


「ダブル!?」


 相部屋はいいけどベッドが一つなのはまずい。ユフィアさんどういうつもりなんですか……。


「あー、こういうことだったか。ベッドが一つとは思わなかった。こっちの方が安かったし大きなベッドでゆったり休めるファミリー向けだと聞いていたのでな」

「嘘は言ってないね」

「うむ」


 この部屋になってしまったことは今さらどうしうようもないことだ。キャンセル料を取られるのも癪だし。

 疲れを取るためにもさっさと風呂に入って、寝ることにした。

 先にあがった僕がソファで横になっていると、タオルで髪を纏め上げたユフィアがベッドに入ってこちらを見た。


「寝ないのか?」

「もう寝るよ。おやすみ」


 近くにあったランプに手を伸ばす。


「なにをしているんだ」

「いやだから寝ようと」

「そんなところで寝たら風邪をひいてしまうだろう。寝るならこっちに来なさい」


 と、まるで子供を叱るような口調で言う。


 僕は内心ドキドキしながらも、ベッドの中に入った。彼女にはエッチな気持ちは1ミリもない。だって、こうして平然と僕を迎え入れられるのだから。変なことを考えてはダメだ。


 横になってみるとベッドが結構大きいことに驚いた。並んでみても余裕であと一人入れる。なるほどファミリー向けをうたうだけのことはあったわけだ。

 暗闇と静寂に支配されて、時折発せられる彼女の衣擦れだけがやけに艶かしかった。


「そばに行ってもいいか?」


 鼓動が、ベッドを伝って彼女に聞こえてしまうんじゃないかって思うくらい跳ね上がった。


「寒いんだ。少し」

「うん」


 ベッドが軋んで、衣擦れが近寄ってきた。背中に彼女の手が当たる。細くてやわらかい指先。聖剣を手放して、鎧を脱いだら、スポーツが得意なただの女の子なんだと改めて思う。


「温かいな」


 心底安堵したような声だった。


「そう言えば、あのときは君がパーティに入ってくれることが嬉しくて、深くは追及しなかったんだが、どうしてわたしのパーティに入ってくれたんだ? やはり王の言うことが気になったのか?」

「いや」


 と訂正の一言だけを出して二の句を告げられない。

 果たして本当のことを言っていいのだろうか?

 彼女のことを傷付けるのが怖くて、ステータスが見えるまでは、と黙っておいたことだ。だが、崖から落ちる前に彼女の弱音と本音を聞いた。もう黙っておく必要もない。


「あなたの手首に、傷があったから心配になったんだ」


 一瞬、爪の先が震えて、僕の背中の上でたたらを踏んだ。


「ああ、あれはその」

「ヴォルには代償魔法だと聞いたよ。でも、【神の不正監査ステータスオープン】で見てもどこにもそんな表示はなかった。それは、自傷行為だ」

「あ、ははっ。そうか。それで付いてきてくれたのか。お人好しが過ぎるぞ」


 彼女の声は乾いていた。


「あのとき、あのお風呂場であなたの手首の傷を見たときに、全部思い出したんだ。前世の記憶を」

「前世?」

「ユフィアと同じで僕も誰かの記憶が流れ込んでくることがあるって言ったよね。あの記憶は僕の前世のものだったんだ」

「と言うことは、わたしのもそうなのか?」

「それはわからない。でも僕のはそうだった」

「君の前世にも手首を切る人がいたんだな」

「うん。そしてその人は自殺した」


 息を呑む音が聞こえた。


「ごめん」


 湿った声が零れた。


「ユフィアのせいで死んだわけじゃあないよ。僕が救ってあげられなかったから。手首の傷が増えていたのに、気付いてあげられなかった。苦しい、助けてって思いがその傷には込められていて、近くにいた僕が気付いてあげるべきだったのに」

「そうは言っても、ずっと近くにいたわけじゃあないだろう」

「いたよ。家族だもん」


 ユフィアの指先が震えて、背中を彷徨っているように思えた。まるで僕の心の在処を探しているみたいだと思った。


「死んだのは僕の姉さんだ」


 ひときわ大きく、彼女の呼吸の音がした。

 背中には顔が押しつけられていた。吐息が温かい。それよりもなお温かい雫が染み込む、染み込む。いずれ冷たくなってしまう雫。でも、今は確かに熱いと感じられる。その現実が温度を伴って心に届くように願って、ユフィアは背中に向かって泣いているのかもしれない。手探りより不確かな方法で僕の傷を消毒しようと。そして多分、それは叶った。この痛みは、傷口に沁みたからなのだろうと思うから。


「あのときは気付けなかったけれど、今回は見つけられた。ユフィアは姉さんじゃないけれど、それでも同じように思い悩んで苦しんでいる人だ。そんな人を見過ごすことはできない。見過ごしたら、それこそなんのための前世だったんだと思う。僕にはお金だとか魔王だとか世界だとかそんなものは関係なくて、ただあなたが少しでも生きやすいと思ってくれるように、そばにいたかっただけなんだ」


 人のことのためにこれだけ泣ける彼女はやさしい人なのだと思う。だからなにもかも抑え込んで、自分を傷付けてしまうのだ。

 闇は彼女の嗚咽さえも受け入れてくれた。こんなにも夜を愛しく思えたのは初めてのことだった。

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