今日はきっと、誰かのご褒日。

浅倉由依

吉報

 華の金曜日、17時21分。わたしは駆け足で退勤の切符を切った。荷物を鞄に詰め込んで、上司への挨拶をに、このオフィスを早足で離れる。道中聞こえてくるのは、やれ飲みだとか、土日の予定だとか。


 そんな話し声を背後に、わたしは締め切る寸前のエレベーターに飛び込む。周囲の人々に軽く会釈をし、呼吸を整えていれば、ほどなくして一階に辿り着いた。




 急ごう。


 今日は嬉しいことがあったのだ。こんな嬉しい日には、家の近くにあるケーキ屋さんの、プレミアムショートケーキを食べなくては、わたしの週末は始まらない。数量限定で売られているそれは、テレビに出るほどに有名なものになっていたのだから。母と父、あとは数があったら弟の分も買ってあげようか。日頃から、何かと相談に乗ってくれていたのだから。


 ふと、玄関に寄り添う花柄の傘が目につき、慌てて手に取る。今日は雨が降るからと母に言われ、無理矢理持たされたものだ。生憎、雨が降っていたのは昼時から二時間ほどだったから、実質必要がなかったともいえる。けれどそんな些細な手持ちが増えたことすら気にならないほど、今のわたしは何よりも無敵だった。


 この素晴らしい解放感に、胸がタップダンスを躍っている。




 オフィスのビルを出る。勢いのまま、些細なコンクリートの段差を飛び越えた。そして、ぎょっとする。着地点には大きな水たまりがあった。途端に水しぶきをあげ、わたしは小さな悲鳴をあげる。少しの沈黙と、周囲の痛い視線。恥ずかしく思いながら、けれど、こう考えるのはどうだろうか。もう、水に濡れる心配がないのだと。


 道路を挟んだ向かいの歩道で、赤と黒のランドセルを背負った二人の小学生が、相合傘をして下校している。真新しそうな長靴でぴちぴち、じゃぶじゃぶ。水たまりで遊びながら笑いあう姿を見ていれば、思わずつられて笑ってしまった。


 雨の湿気たツンとした匂いに、帰宅を急かされる。


 思い出したように、わたしは駆け出した。


 反射する空の青空を飛び越え、この足は止まらない。


 鼻歌なんて歌ってしまう。曲名は忘れたけれど、ずいぶん古い曲だった気がする。



「あらスミちゃん、今日は早いのね。それになんだか嬉しそう。どうしたの?」


 行きつけの、ケーキ屋のお母様に、問いかけられた。














「あのね! 嫌いな上司が異動になるの!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る