第9話 ランデブーポイント

 土曜日、午後七時半、繁華街。春海は、セフレがやってくるのを待っていた。ヤるだけの約束だ。

 いつも通り身体の準備をして、立っていた。

 春海は、待ち合わせ場所に早く来てしまう癖があった。遅刻するのが怖いのだ。

 本当は待ち合わせの時間だって、あと三十分後だ。でも遅れて、切られるのが怖くて、時間ちょうどや五分前に来ることは難しい。

 寂しがりで、いつも不安で、空っぽの自分。誰でもいいから、はやく温めてほしい。

 こんな生活、ずっと続けられるはずないのに。


(あー、やだやだ)


 沈む思考を振り切るように、春海は首を横に振る。端末を取り出して、なんとなくブラウザ画面を開いた。

 天気予報を見る。今晩は晴れで、明日も晴れ。夜空を見上げても、繁華街では、星ひとつ見えない。ぽっかりと月が浮かんでいた。

 ときどき声をかけられながらも、待ち合わせ相手がいると適当にあしらった。そして待ち合わせ時刻になる。

 ちょうどその時、相手から、少し遅れるという連絡があった。それに返事をするために、俯いて端末を操作する。

 突然、肩を掴まれた。春海の身体が強張って、咄嗟に目線を上げる。


「ハルさん……!」


 顔を苦々しく歪めた、ヨシがいた。なんで、と呟くハルに、彼は咎めるように言った。悲鳴みたいな声だった。


「何やってるんだ、あなたは!」


 周りの人々の視線が一瞬、春海たちに向けられる。だけどすぐに興味を失って散らばった。春海は、戸惑いながら首を横に振る。


「なにって、……お前には関係ない」

「関係あります。僕、ずっとあなたを探してたんですよ。ここにいないかって、ほぼ日で探して……マッチング候補にもあがらなかったから、申請もできなくて」


 春海は、思わず息をのんだ。ヨシは必死の表情で、春海へ問いかける。


「僕のハルさんへの気持ち、分かってますよね」


 こんなはずじゃなかった。春海はどうしたらいいのか分からなくて、ただヨシを見上げて、首を横に振る。


「お前は、こんなところにいちゃダメだ。帰れよ」

「帰るならハルさんも一緒です。誰を待ってるんですか?」


 一瞬、答えに詰まった。ヨシは怒っている。そしてその怒りを鎮める手段を、春海は持っていない。

 どうしたらいいのか分からなくなって、途方に暮れた。散々迷って、正直に答える。


「セフレ」


 後ろめたさで、声が震えた。ヨシは「分かりました」と頷いて、春海の腕を掴む。その強引さに息をのんだ。


「それなら、今すぐ断りの連絡を入れてください。僕と帰りましょう」

「なんで……?」


 春海は、混乱していた。どうしてヨシがここにいるのか。どうして春海を連れ帰ろうとしているのか。固まる春海の腕を、ヨシが引っ張った。怒っているように見えるし、悲しんでいるようにも見える。


「僕があなたに拒絶されて、どんなに悲しかったか、聞いてほしいからだ!」


 その言葉に、春海は呆然とした。心の奥から、熱くて、どろどろした何かが噴き上がってくる。虚ろなところがぐつぐつ煮えて、別の何かがふくらんでいく。

 それが何なのか気づく前に、春海の端末が振動した。空いた手で見ると、待ち合わせ相手の「もうすぐ着く」という通知だった。


「ヨシ。もう、相手が来るから……」


 弱々しくて、媚びるみたいな声だ。まるで、ヨシが連れ去ってくれることを期待しているみたいだ。

 だけどヨシは、そんな乱暴なこと、してくれなかった。


「ハルさん。僕と来てください。話を聞いてください」


 ヨシは、春海に選ばせようとしている。ぐらぐらと思考が煮えて、冷静ではなくなっていく。

 どうしたらいいのか、分からない。春海はこれまで選ぶ側ではなかった。選ばれる側だった。

 恐ろしい。選ぶということは、片方を切り捨てるということだ。

 今、春海が持っているのは、セフレとの肉体関係だけだ。春海の持ち物を全部捨てなければ、ヨシは選べない。そういう選択を迫られていた。


 迷う春海を前に、ヨシは辛抱強く待っていた。でも春海は、選べない。勇気がないのだ。

 途方に暮れる春海の耳に、軽薄な声が届く。


「あれ? ハル。新しく男捕まえてたん?」


 待ち合わせ相手のセフレだ。春海が肩を震わせると、ヨシは威嚇するように目を細める。

 それを気にとめず、セフレは春海の肩に手を置いた。ヨシを見上げる。


「何? 今日、三人でするの? 俺はいいけど、ハルが大変じゃん。ひとりでウケすんの大変そ〜」


 ぷつん、と何かが切れた。春海は肩に置かれた手を払い、ヨシの腕を掴む。

 そんな下劣な言葉を、ヨシを見ながら言ったこの男が、許せなかった。

自分のことはどうでもいいけれど、ヨシの価値を低く見積もられたくない。


「誰がお前とヤるか! ひとりで寂しくマスかいてろ、バーカ」


 春海は舌を出して、ヨシの腕を引っ張った。そのまま走り出す。

 繁華街の人混みをかき分けて、走った。背後からはセフレが呼び止める声が聞こえる。でも、止まらない。

 耳元に心臓があるみたいだった。自分の鼓動がやけに響いて、どうしようもない。

 春海は、ヨシを選んだ。それだけが、二人にとって大事な、唯一の事実だった。

 先に春海の息が切れた。立ち止まってぜいぜいと荒い息を吐く春海の背を、ヨシが叩く。


「ありがとうございます」


 そんな言葉、かけてもらうほどのことはしてない。むしろ、もっとなじっていいのに。

 春海は、よろよろと顔を上げた。ヨシの髪は乱れている。春海も、きっとひどい顔をしているんだろう。ヨシは控えめな笑みを浮かべた。春海の額に張り付く前髪を払う。指が触れるのにすら、じんとした感動を覚えた。

 春海は、もうこれまでには戻れないことを、確信した。


「……ちゃんと話す。どっか、入ろう」


 春海の提案に、ヨシは頷いた。駅に向かって、夜中も営業している店を探した。居酒屋ばかり見つかる。

 でも、そんな賑やかな場所に居座る元気は、今の二人になかった。


 結局、二人は吸い込まれるようにして、ネットカフェへと入った。狭い部屋へ案内されて、荷物を下ろす。向かい合って、春海はヨシへ頭を下げた。


「これまで散々、ひどいことを、たくさんしました。ごめんなさい」

「はい。許しません」


 許しませんよ、とヨシは繰り返した。でもその声が優しくて、春海はじんわり、緊張がほどけていく。

 また優しい声で、ヨシは尋ねた。


「本当に反省しているんですか? ハルさんは、僕にどんなひどいことをしました?」


 促されて、春海は、これまでのことを悔いた。

 マッチングをブロックしたのに、何度も会ってしまったこと。わざと幻滅させようとしたこと。ヨシの気持ちへ、中途半端な態度を取ってしまったこと。

 ヨシはすべてを聞いた。そして、笑った。


「そんなの、僕だっておあいこです。ブロックされたって、何度もマッチング申請したんだから。でもね、ハルさん」


 大きな掌が、春海に向かって開かれる。吸い込まれるように、春海はヨシの胸へ収まった。温かい。体温にうっとりする春海の背中を、ヨシがぎこちなく叩いた。


「身体を差し出して、それがダメだったらさよなら、なんて、酷い。僕が怒っているのは、そこだ」


 熱くて、湿った吐息が耳元にかかる。春海は震える背筋をいなしながら、「うん」とヨシへしがみついた。


「僕の気持ちを、身体の関係で清算しようとしないで。僕が見返りにほしいのは、それじゃない。欲しくない、わけじゃない、けど」


 だんだん歯切れが悪くなってくる。春海は笑って「そうだね」と、たくましい身体を抱きしめた。


「話そう。全部」


 春海とヨシの長い夜が、始まろうとしていた。

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