03
「ねぇくま、起きて。もうお昼過ぎちゃう」
「あー⋯⋯」
「おなかすいた。冷蔵庫開けてもいい?」
「⋯⋯え?」
「ねぇお願い。このままじゃ餓死しちゃう」
七月二十九日。
目を覚ますと、眼の前にダル着姿の美少女がいた。名前は舞原海。高校二年生の時のクラスメイト――の、たぶん幽霊だ。
「消えてなかったのか……」
リビングの床に寝転んだまま、正臣がぼそっと呟く。当の本人には聞こえていないようだった。
「ねえくま、冷蔵庫」
「好きにしていいけど、特に何も入ってないぞ」
「えー⋯⋯」
力が出ない、と冷蔵庫の前にへたり込む海。正臣はのろのろと起き上がると、スマホを確認した。時刻は十二時少し前、海の言う通りだ。窓の外はこれ以上無く明るくて、真夏の太陽がぎらぎらと眩しかった。エアコンで快適に冷やされた部屋の空気が、なぜかいつも以上に清々しく感じる。
昨夜は結局、海に寝室を譲ってリビングで寝ることにした。リビングのソファは寝転がれるほど大きくはないので床で寝たが、おかげで体の節々が少し痛かった。
「昨日のお菓子、もうちょっと食べてもいい?」
「い……いや、よくない。菓子ばっか食うな、体に悪い」
「えー」
哀れっぽくお腹に手を当てた海は、正臣のTシャツのスウェットを着ている。風呂上がりに濡れた制服をまた着せるわけにもいかないので、そっと脱衣所に置いておいたのだ。要るかどうか迷ったが、たまたま買い置きしていた新品の歯ブラシも添えて。海の後に正臣も風呂に入ったが、出てきた頃には既に彼女はうとうとしていた。あとは彼女を寝室に放り込んで、疲れが限界だった正臣も床に転がったというわけだ。
(日光を浴びても消えてない。マドレーヌも食われたままだ。影もある……)
不思議な夢がまだ続いているのだろうか。寝起きの頭でぼんやりしつつも、正臣はまず顔を洗い、歯を磨くことにした。いつもの孤独な休日なら、しばらくベッドで寝転んだまま、スマホで記憶に残らない動画を見る。が、今日は同じ空間にヒトがいる。しかも服装はダルダルなものの、彼女の髪はつやつやと整い、身支度的なものは終わっているらしい。なんとなく大人として恥ずかしいような気がして、正臣は足早に洗面所へと向かった。
海はどうやら腹が減っているらしい。十代の子供にそんな訴えをされては黙っているわけにもいかず、正臣は寝起きの頭をフル回転させる。
(朝飯……いや、昼飯か。うちには何があったっけ。豆腐とハムと……微妙だな。でもレトルトのパスタ出すのは違うよな。あれはやる気がない時用のものだから)
菓子ばかり食べるなと言った手前、下手なものも出せない。難しい顔をしていると、海が少し不安そうに覗き込んできた。
「……くま、どうしたの」
「え? ああ、ちょっと昼飯の事考えてた」
「私、うるさかった? 怒ってる?」
「え? いや全然……それより何が食いたい? 作るよ、舞原が食べたいものを」
まずはリクエストを聞こう。スーパーは近くないが、走ればそんなに遅くはならないだろう。海は「作ってくれるの?」と嬉しそうに目を輝かせた後、少し考えて、こう言った。
「えーっと……今この家にあるものでできて、すぐに食べられるものがいい」
「……なるほど。なんなら買い物に行ってくるけど」
「えっ! いいよそんなの、起きたばっかなのに大変じゃん」
海が慌てる。さっきまで無邪気に空腹を訴えていたくせに、なんで急に尻込みするんだ。……もしかして、彼女なりに気を遣ったのだろうか。むしろ難易度が上がった気がするが、あまり気負って手の込んだものを作らなくて良いというメッセージだと解釈することにした。リクエストに答えるべく、正臣はさっさと洗顔とスキンケアを終わらせる。そして手を洗うと、冷蔵庫を開け、その次に冷凍庫を漁って考えを巡らせた。
(よし⋯⋯)
食材を確認し、頭の中で段取りを組み終えると、正臣はまず絹ごし豆腐を取り出した。それとハム、チーズ、バター。バターは適量切ってレンジで溶かし、冷凍庫から発掘した食パンは、凍ったままフライパンに並べて弱火をつけた。バターが溶けたら、オーブンレンジは二百度に予熱する。次にボウルに豆腐を入れ、泡だて器でペースト状になるまで混ぜていく。力強くガシャガシャと撹拌し、豆腐の大まかな粒がなくなったら、そこに溶かしバターと少量の味噌、同じく少量の牛乳を加える。
「なに作ってくれるの?」
そわそわした様子の海が、手元を覗き込んでくる。
「クロックマダムっていう、パンにホワイトソースと目玉焼き乗せて焼く軽食。小麦粉がないからソースは豆腐で作るけど」
「へええ……それってなに料理……?」
「フランス料理なのかな、一応。悪いけど、そっちの引き出しからハンドブレンダー取ってくれ」
「はんどぶれんだー」
「そう、その長細いやつ」
海から受け取ったハンドブレンダーに食品用アルコールを吹きかけ、軽くキッチンペーパーで拭いた後、刃をつけて豆腐のペーストをさらに滑らかにしていく。途中で少し胡椒をひくと、フライパンで解凍しておいた食パンを皿に移し、その上にたっぷりと豆腐のベシャメルソースを乗せていく。
「おいしそう……」
「もうちょっとでできるから。チーズは多め?」
「うん、多めがいい」
残っていたハムをぜんぶ並べて、その上にとろけるチーズをたっぷりかける。オーブンに入れて十分のタイマーをセットしているうちに、正臣は洗い物をはじめた。海が「私も手伝いたい」と言うので、洗ったものを拭いて、片付けてもらうことにする。
「キッチン綺麗だね。おっきいし、いろんな道具がある」
「料理が一番の楽しみだったんだよ。一人暮らししたてのころは、広いキッチンに道具揃えて、好きなだけ料理できる環境を整えるのが夢だった」
「じゃあ、その夢は叶えたんだ。毎日料理し放題?」
「んー……いや、今は別に」
フライパンで目玉焼きを作りながら、正臣はそう生返事をする。そういえば、この物件で一番心惹かれたのがキッチンだった。正面が窓なので明るく(ただし窓を開けると墓地が広がっている)、作業場がそこそこ広くて、コンロは二つ口。以前住んでいたアパートより家賃は少々上がるが、その痛みを飲んででも、ここで料理がしたかったのに。
(引っ越しと同時にオーブンも奮発して、貯金がゼロになったっけ。でも、あのときはそれでも幸せだったんだよなぁ)
目玉焼きは数十秒間蒸し焼きにし、黄身に熱が通る前に火を消す。皿を出しているとオーブンが鳴り、正臣はミトンをつけて天板を引き出した。焼色を確認すると、なかなか悪くない。
こんがりと焼色のついたチーズが程良くとろけ、キッチンに香ばしくて芳醇な香りが漂う。歓声をあげる海にカトラリーを用意して食卓で待つように言い、正臣は湯気のあがるトーストを皿に移した。ほこほこと熱気のあがるチーズの上に目玉焼きを乗せ、瓶詰めパセリをふって胡椒をひいたら、クロックマダムの完成だ。
「魔法みたい……」
また大袈裟なことを呟く海の前に、温かなクロックマダムの皿を置く。真っ白いプレートにチーズたっぷりのトーストが映えるが、できれば緑が欲しかった。葉野菜のサラダでも添えれば完璧なのだが、それはまた今度にさせてもらおう。
「ありがとう、くま。美味しそう。きれいすぎて、食べるのがもったいないよ……」
「冷めないうちに食べてくれよ。ていうか結構ボリュームあるけど、全部食えるか?」
「うん……足りないかも」
「なるほど……」
なら、あとで買い物に行かないとな。海と一緒に手を合わせ、目玉焼きにナイフを入れながらそう思った。黄身の流れ具合はそこそこで、思ったより火が入ってしまっている。やや固めの質感に、少し惜しい気持ちになる。もう少しゆるいほうが、たっぷり乗ったベシャメルとよく馴染むのに。
(そういえば、誰かのために料理したのっていつ以来だったっけ)
実家に居た頃は、家族のためによく料理をした。専業主婦の母も、会社員の父も、ふたりとも料理上手な上に食べるのが大好きだったから、正臣が台所に立つのをいつも歓迎してくれていたように思う。喜んでもらえるのが嬉しくて、正臣はバイト代をはたいて高い食材を買い、凝った料理に挑戦したりもした。パティシエになったのも、両親の誕生日にするケーキ作りが特別楽しかったのがきっかけだった。
東京で人に料理を振る舞ったのは、多分一度か二度くらいだ。栃木から出てきた友達を招いて、激狭のアパートで鍋を囲んだ記憶がある。一人暮らしの最初の物件はキッチンの設備が弱すぎたが、それでも丁寧に出汁をとり、喜んでもらいたい一心で国産の肉を買った
。
それももう、だいぶ遠い日の記憶だ。
(うまいけど、もっとうまくできるな。そもそもベシャメルは小麦粉で作ったほうがパンに合うし……まあ、切らしてたからしょうがないけど。ハムはもっと旨味のある切り落としの方が良いし、チーズも……そういえば皿も温められてない)
トーストを切り分けつつ、あとからあとから、そんな減点ポイントが浮かんでくる。人に手料理を食べてもらうというだけで、何故こんなにも欲張りになってしまうのだろう。出来合いのもので作った割には悪くない料理だったはずなのに、なんだか急に目の前のクロックマダムが恥ずかしいものに見えてくる。
そういえば、さっきから海が黙ったままだ。昨夜の失敗マドレーヌであんなに喜んでいたのだから、今回も何かリアクションをくれるはずなのに。もしかして、口に合わなかったのか……?
そう思いながら恐る恐る視線を上げると、
「……え」
フォークを握り、トーストを噛み締めたまま、海が静かに泣いていた。人形のような澄まし顔を赤くして、大きな瞳から静かに涙を流している。
「な、なんで泣いてるんだ……」
意味不明すぎて、心臓の奥が冷える。海が口いっぱいに頬張ったままモゴモゴ喋ろうとしたので、「いや、飲み込んでからでいい」と慌てて制した。海は頷き、よく噛んで味わってから勢いよく飲み下す。⋯⋯それ、喉につまらないか? 新しい水を渡しておくか。
「しぬ」
「え!?」
ようやく喋った海の言葉に、意味不明さが倍増する。どうしたらいいかわからず狼狽える正臣を前に、海は涙を拭いながら続けた。
「おいしい、くま。あったかくてトロトロで、サクサクで……あはは、よくわかんないね。なんで泣いちゃうんだろ、なんか勝手に出てくるんだよ……今すごく幸せな気持ちで、このまま死んじゃいそう」
涙の訳を説明してくれているつもりなのだろうが、相変わらず全く意味がわからない。正臣は半ば困り、半ば呆れながらティッシュを差し出した。
「昨日も思ったけど、死ぬって簡単に言うなよ……まあ、悪い理由で泣いてるんじゃないならいいけど」
「ごめんね、ありがとう。あー鼻水も出そう、ティッシュもう一枚ちょうだい」
「おお……」
「ねえ、ほんとにおいしいよ、くま。できたてのあったかいご飯なんて、中々食べられるものじゃないよ。ほんとうにありがとう⋯⋯あぁまた鼻水出てきた」
(情緒がめちゃくちゃだな⋯⋯)
ひとまず口に合うのなら良かった。が、そんなことでいちいち泣かれるとこっちの体力がもたない。だいたい、温かくて嬉しいってなんだ。作りたての手料理があったかいのなんて当たり前だろう。そう言いかけたところで、正臣は、ふと口を噤んだ。
(もしかして、あんまり経験がなかったのか。作りたての料理を、温かいまま食べることが)
あの葬式の光景が頭をよぎる。十一年前の九月に参列した、海の葬式。あまり悲しそうな感情がうかがえない、どこか面倒くさそうな舞原の保護者達の顔。とりわけ母親の無機質な無表情は、多感な正臣の心臓を抉るような冷たさがあった。
あの母親と海が温かな食卓を囲んでいたとは、到底思えない。むしろ幼い海が冷えた食事を一人で温めて食べている姿のほうが、容易に想像できる。それどころか、食事さえ与えてもらえなかったことも……なんていうのは、さすがに考えすぎか。
とにかく、海が今正臣の拙い料理にたくさん喜んでくれるのは、これまで経験のなかった人の温もりを感じてくれているからなのだろうか。しかしそんなことを言葉にして尋ねるのは野暮だし、そもそも勝手な妄想を膨らませて同情する自分にも、不思議な嫌悪感が湧いていた。
邪推するのはやめよう。自分のしたことを海が喜んでくれた。それだけでいい。正臣はそう思い直すと、カトラリーを握る手に力を込めた。
「喜んでくれたなら良かった。俺も久々に家で料理したんだ、食べてくれる人がいると作り甲斐あるよ」
「もったいない! くま、本当に料理うまいよ。さっきも手際よくてきぱき作って、魔法みたいだったもん!」
心底嬉しそうにそう言って、舞原はその後もモリモリとトーストを食べ進めた。パンのかけらまで大切そうにかき集めるその姿は、幽霊とは思えないほど生命力に満ちている気がして、正臣はなんとなく彼女から目を離すことができなかった。
ものの数分で食べ終えた後、海はデザートのマドレーヌまで欲しがった。栄養バランスが悪いからと止めても海は引かず、結局、正臣が折れることになる。
(おお、だいぶ減ってる……)
数十個入っていたマドレーヌの袋は、明らかに中のかさが減っていた。それが妙にほっとして、正臣は海に向き直る。
「なに? あ……もしかして、中身減りすぎて怒ってる……?」
こわごわとこちらを見返す海が、幻だろうと幽霊だろうと構わなかった。どうせ正臣にしか見えない存在なのだろう。それなら好きなだけこの世にいるといい。ある日煙のように彼女が消えてしまって、全部が気のせいだったのだとしても、それはそれで構わない。そう思った。
「いや。どうせなら、もっと栄養のあるものを食わせたいなと思って。日が落ち着いたら、一緒に買い出しに行かないか」
「⋯⋯ごはん、また作ってくれるの?」
「ああ。他にも必要なものがあれば買うよ。直接言いづらいものがあるなら、俺のアカウントで通販使ってくれればいいし」
海が目を丸くする。ガラス玉のような瞳が大きく見開かれ、吸い込まれそうに綺麗だった。あまりに綺麗で、眩しいな、と、ただそれだけを思う。
「いいの? 私たぶんユーレイだよ? 今はこんなに可愛いだけだけど、後で悪霊だったってわかるパターンかも」
「口にパン屑つけた悪霊だったら、たぶんそこまでタチ悪くないだろ。平気だよ、別に」
「でも……」
「舞原の好きにして良い。他に行く場所があるなら助けるし、ここに居たいならそれでいい」
正臣は本心からそう思って、言い切った。海はしばらく固まっていたが、少しの沈黙のあとに「ここに置いてほしい」と言った。
その後は一緒に後片付けをして、リビングにある本棚を物色しながら日が傾くのを待った。海は正臣との最初の会話のきっかけになった漫画を見つけると、夢中になって読み込んだ。そして案の定、推しキャラの死に直面した時はまた少し泣いた。海が泣きながら漫画を読み終えるまでは二時間程かかり、正臣は熱いお茶を入れて話を聞いた。ようやく落ち着いて他の話ができるようになってくると、正臣はふと窓の外を見る。
「そろそろ出かけるけど、家で待ってるか?」
「ううん、一緒にいく。外の様子も見てみたい。まだ死んだ後の世界は、このアパートの中しか知らないから」
(死んだ後の世界……)
なんでもない顔で凄いワードを言う。
空が茜色になってきた頃、二人はようやく家を出ることにした。日中の暑さは少しだけ和らいだようだが、やはりまだまだ蒸し暑い。
「くま、靴貸して」
「え……昨日履いてたやつは?」
「もう乾いてるけど、あれローファーだよ? この服に合わない。ビーサンとか、なんでもいいから」
「やっぱり歩いていくのか。一応聞くけど、浮いたりとかって……」
「できないってば。できたら楽しそうだけど」
自分の後を海がふよふよと浮きながらついてくるイメージをなんとなくしていたが、無理らしい。幽霊の割に不便なものだ。「わ、足もでっかい」なんて言いながらサイズの合わないサンダルを引っ掛けて歩く姿は、なんとなく危なっかしかった。通販で必要なものはあらかた注文しただろうが、届くまでの期間のためにクロックスでも買っておくか……
「ねえ、近くに本屋さんってある? 私、漫画コーナーに行きたい。今はどんな作品があるのか見てみたいから」
「駅まで行けばな。ついでに買うか、あのシリーズの最新刊も」
「えー! やった、楽しみ!」
鍵を閉めつつ、相変わらず元気な海の相手をする。そういえば、海が好きな作家が新シリーズを出していた。それについても話を振ると、海はますますヒートアップした。案の定どんな話なのかと質問攻めに合い、大して知識はないながらも分かる範囲で返答する。
はたから見れば、自分は一人で喋っているように見えるのだろうか。正臣はふと考えた。だとしたら、だいぶ怪しい奴に見えないか。家では自分しかいなかったからいいが、街中で幽霊の海と会話するのはいかがなものか。自分にしか見えていないであろう海の背中を見ながら考えるが、
(⋯⋯まあいいか。こんなに楽しそうなのに、話しかけるなとも言いたくない)
ちょっと悩んだ末に、正臣は己の中でそう結論付けた。通行人にヤバい奴と思われる覚悟を決め、海を連れて歩き出す。どうせ街に知り合いなんて居ないのだ。ヤバいと思われて困るのは職場の人と、隣人の御婦人くらいだ。この人たちに会わなければ、別に――
「あらぁ、正臣くん。こんにちは」
「あ⋯⋯! さ、咲良さん、こんにちは……!」
最悪だ。アパートの階段を降りきった瞬間、帰宅途中であろう隣人の御婦人――神園咲良さんに鉢合わせてしまった。ふんわりと完璧にセットされた純白のシルバーヘアに、お洒落な海外マダムのような華やかな服装、ぴんと伸びた背筋、たおやかな佇まいの美しい御婦人だ。たまに正臣に美味しい料理をお裾分けしてくれる女神のような女性で、正臣にとって、この町で数少ない「ヤバいと思われたくない人」だった。
(終わったか⋯⋯)
緊張の数秒が流れる。しかし咲良さんの淡い色のリップに彩られた唇は緩やかに弧を描き、いつものふんわりした笑顔を見せた。
そして彼女は正臣の背後を覗き込む。
「可愛らしいお嬢さんね。妹さんかしら?」
「えっ」
咲良さんの言葉で、一瞬時が止まったようになる。正臣の後ろで、海も呆然と目を見開いていた。
「見……えるんですか」
「見えるって?」
「その、舞原が⋯⋯」
「そこのお嬢さんのこと? 当たり前じゃない。お人形さんみたいねぇ、綺麗な子」
咲良さんは「おかしなことを言うのね」と鈴の音のように笑うと、まっすぐに海を見据え、手を差し出した。
「こんにちは、はじめまして。正臣くんと同じアパートに住んでいます、神園咲良と申します。どうぞよろしくね」
「は⋯⋯はい、舞原海です。よろしくお願いします……!」
条件反射で海も手を出し、咲良さんと握手をした。触れている。幽霊のはずなのに、咲良さんと握手ができている。もしかしてこれも幻なのかと一瞬思うが、それにしては額に滲む汗が生々しすぎる。
とにかく、これは現実だ。内心パニックになるが、それならそれでうまく誤魔化さないとまずい。名字が違うことを明かしてしまったし、妹だと言うことはできない。何かうまい設定を――
「えーっと⋯⋯この子、俺の親戚なんです。普段は栃木に住んでるんです。ゆくゆくは東京の大学に進学希望なんで、だから夏休みの間だけ俺の家に居候して、色々見て回る、みたいな」
これ以上なく脳がギュンギュン回転し、口から勝手に言葉が出てくる。それっぽい話だ。海も隣でうんうんと頷いており、海なりに正臣の世間体を守ろうという意志はあるらしい。
「まあ、そうだったの。それじゃあ、いまは高校生くらい?」
「は、はい。十七……です」
「あの、咲良さん。一応言っておきたいんですけど、いかがわしいこととかはマジで、一切、絶対に無いんで……!」
誤解されたくなくて念を押す。逆に怪しまれそうだが、正臣は必死だった。
「いやあね、そんなことわかってるわよ。正臣くんが誠実な子だってこと、よく知ってるもの。仲良くしたくて声をかけただけよ、大丈夫」
しかし咲良さんはあっけらかんとしていて、安心させるように正臣の肩を優しく叩いた。
「一人で暮らすのも幸せだけど、たまには誰かと過ごすのも良いものよ。しばらく生活にハリが出るわね、正臣くん」
「そう……なんですかね」
「ふふ、そうよ。それじゃ、またお会いしましょうね」
咲良さんは海にも会釈をすると、アパートの階段を上がっていった。正臣と海は彼女の後ろ姿を呆然と見送り、見えなくなるとどちらからともなく顔を見合わせた。
「どういうことだよ。舞原って、俺だけに見える幽霊じゃなかったのか」
「私に聞かれてもわかんないよ。でもビックリした……私、他の人とも喋ったりできるんだね。ていうか触れたし」
海自身もかなり動揺しているようで、呆然と自分の手を見つめた。そして少し黙った後、「きれいな人だった」と小さく呟く。
「また話せるかな、咲良さん。私、あの人好き」
「そりゃお隣さんだし、話せるだろうけど……はあ、本当によくわかんないことばっかだな」
「そうだねえ。でも、考えててもしょうがないじゃん。早く行こうよ、私お腹すいたし漫画も欲しい」
そう言って、海が沈みかけの夕日に向かって踏み出していく。正臣も考えるのに疲れたので、少し遅れて彼女の後を歩き出した。こめかみから流れた汗を拭いながら、ふと海の後ろに伸びる影を見た。本当に生きている人間みたいだ。
アパートの隣の小さな都営墓地も、真っ赤な茜色に染まっていた。クヌギの幹で鳴くひぐらしの声がこだまして、気を抜くと現実ではない世界にいるような錯覚を起こしそうだ。そんな中、海の履く、サイズの合わないサンダルの足音がやけに鮮明に響いていた。
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