欠片のない風景
トウシン
プロローグ
——風景の中に、自分の影が見えなかった。
春の風は、頬にまだ少し冷たさを残していた。ナンコウ高校の校舎裏、ミナと親友のシズクは並んでベンチに座り、ほとんど会話もなく空を見上げていた。制服の袖に残る冬の重みと、新しい季節の気配が入り混じる午後。
「進路、もう決めた?」
シズクの問いに、ミナは少し考えてから答えた。
「……まだ。なんか、ちゃんと“自分”のこと分かってない気がしてさ」
言いながら、自分でもその言葉に驚いた。胸の奥にある、うまく形にならないざらつき。それは昔からずっとあったはずなのに、こうして言葉にして初めて、それが「自分」という輪郭のあやふやさに関係していると気づいたような気がした。
進路を選ぶという行為は、自分という人間の“芯”を見つけなければならない。でも、ミナにはその芯がどこにあるのか分からなかった。見えない何かに触れた気がして、少しだけ喉の奥が詰まった。
「自分のこと?」
「うん。これまでなんとなく流されてきたっていうか……」
空は青く、遠くの山々の輪郭が霞んでいる。春はすぐそこまで来ていたが、ミナの胸にはまだ何かがひっかかっていた。
「ねえ、ミナって……昔のこと、あんまり話さんよね?」
「うん……覚えとらんけん」
「ほんとに? 小学校の頃の話とか、ほとんど聞いたことない気がする」
「……あんまり思い出せんとよ。3歳くらいまでは、特に」
それは嘘ではない。だが、真実もすべて語ってはいなかった。
——本当に“記憶がない”のか。それとも、“記憶にすべきものがなかった”のか。
ふと、風が吹いた。鼻の奥をくすぐる春の匂い。記憶の奥に眠っていた何かが、かすかに揺らいだ。
ミナは目を閉じた。閉じた瞼の裏に、白くかすむ病室の光景が浮かぶ。ぼんやりとした照明、ベッドの縁、誰かの影が窓辺に立っていたような気がする。
でも、その記憶が本当に自分のものなのか、確信が持てなかった。
その夜、ミナは部屋でひとり机に向かい、ふと思い立って棚の奥から古いアルバムを引っ張り出した。表紙の隅が擦れて色あせたそれを開くと、「ミナ3歳誕生日」と記されたページが目に入った。
そこには笑顔のミナがいた。ケーキを前に座り、小さな手でロウソクを指さしている。
けれど、その姿に、ミナは小さく首をかしげた。
(……これって、本当に3歳のわたし?)
表情も、身体のつくりも、どこか2歳くらいにしか見えなかった。あどけなさが際立ち、言葉よりも仕草で伝えようとしているような雰囲気が、写真の中に漂っていた。
「成長が遅かっただけかもしれんけど……」
そう思っても、胸の奥の違和感は拭えなかった。
ミナはアルバムを閉じ、深く息を吐いた。
ほんの小さなひっかかり。
けれど、それが彼女にとって、過去へと続く扉の隙間だった。
翌朝。制服に着替えながら、鏡に映る自分の姿をじっと見つめた。
髪の生え方、顔の輪郭、成長の過程——なぜか全部が、ほんの少しだけ“違うように感じる”。
人より遅れているような、でも遅れていないような。説明のつかない違和感だけが、毎日をじわじわと浸食していた。
朝食のテーブルで、ミラが言った。「ねえお姉ちゃん、今日図書館行くとやろ?」
「うん、ちょっと調べたいことがあるけん」
「また郷土資料? お姉ちゃん、ほんと変わっとるよね」
そう言いながらも、ミラは悪気なく笑っている。その無邪気さが、ミナの心をどこか締めつけた。
(私は……何を探そうとしてるんだろう)
でも、その問いにはまだ答えがなかった。ただ確かなのは、
——“何かが違う”
という、説明できない確信だけだった。
ミナは手帳を開き、小さくこう書いた。
《私は誰なんだろう。》
その文字を見つめるうちに、胸の奥から何かが、静かに、息を吹き返すような気がした。
ただ流されるように過ごしてきた日々の中で、その問いだけが、胸の奥でしずかに息をし始めていた。
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