レベル9999の魔王、20人の王妃にレベルをレンタルする

サナギ雄也

序章  最弱から最強へ

 ――魔物の中で、最弱の種族とはいったい何か。

 それはゴブリンか。オークか。コボルトか。それともスライムだろうか。

 それは――そのいずれでもない。魔族と呼ばれる中で、最弱と呼ばれる種族は、『インプ』だ。

 小さな体躯に、小さな羽のある底辺の悪魔。人間より二周り小さい体。全体的に黒い体皮。矢尻のような先端の尾はやや鋭利だが、脆くていかにも頼りない。黒い羽は飛ぶには小さすぎてみすぼらしい、ほとんど飛翔も出来ない底辺の悪魔。

 彼らはゴブリンやオークより脆弱である。ゴブリンたちが武具を扱うことで戦力を増せるのに対し、インプは握力が弱いため武器も持てない。

 コボルドの鋭い爪牙やスライムのような不定形を生かした奇襲性もない。よって最弱。

 もし仮に、インプが『俺は進化して魔王になる!』と宣言したならば、全ての魔族たちは腹を抱えて笑い転げるだろう。

 ゴブリンよりも、オークよりも、コボルトよりもスライムよりも弱い。それが最底辺である、インプという魔物だ。


「お前はザコだだよ、ザーコ!」

 ゲラゲラと下卑た笑いが周囲の魔物たちから発せられた。鬱屈とした森である。世界の果ての果て。『魔大陸』と呼ばれる西端の辺境。

 インプの若い悪魔、『ディオス』という名を持つ彼は、泥水をまともに浴びせられて憤激に駆られていた。

「お前ら……っ、いい加減にしろ! 何度も何度も!」

「くはは! いいね、泥水でいっきに格好良くなったなディオスくん!」

「その顔でサキュバスもラミアもイチコロだなっ!」

「はは! もうメスどもが放っておかないんじゃないの?」

「……貴様ら、もう許さない!」

 ディオスは小さな羽を動かし殴りかかった。しかし駄目だ。相手の魔物、ゴブリンたちは軽々と避けて拳で反撃してくる。乱杭歯の醜い魔物。人間の子供ほどの大きさの弱小な魔物。

 けれどインプであるディオスは、そんな彼らにすら勝てない。ましてや複数が相手ならなおさらだ。

「底辺のディオスが怒ったぞ! ああ怖い、怖いな!」

 ゴブリンの二体――ボズとガングが、ニタニタといやらしい笑みを浮かべている。

 彼らの親玉であるオーク――ダルガスもせせら笑って加勢し、ゴブリンと比べて一回り大きい豚頭の魔物は、ディオスの頬を思いっきり殴りつけてくる。

「がっ、くは……っ!」

「ぎゃはは! 弱いなディオスくん! そんなんじゃ上級悪魔にはなれないぜ?」

「そうそう。メス悪魔にも振り向かれず、一生独り身で過ごすなんて哀れ!」

「貴様ら! ぜったい潰す! 絶対にだ!」

 ディオスを嬲るボズたち三体の魔物に嘲笑が広がる。

 ――ひどい光景だがこれは魔族の日常だ。

 弱いことは魔物にとって悪であり、軽蔑や差別の対象である。たとえ人間では外道と呼ばれる行為だとしても、魔族の間では善と許される。命、名誉、矜持。そんなものに価値はない。弱者は踏みつけても良い――それが魔物の掟。魔族全体における理(ことわり)だ。

「お、お? これでも立っているとはすげえじゃねえか」

オークのダルガスが、ぬっとディオスの背後に立った。大人の人間に近い体躯を揺らし、その両拳をディオスの頭に叩きつけてくる。脳天ごと割れるような痛みが迸った。

「ぐっ、ああああっ!?」

「ほら、これならどうだ? ――耐えてみろよ!」

 さらに無慈悲に強烈な一撃が振り下ろされる。視界が揺れる。目に星が散る。ディオスは歯を食いしばりながら、目尻に涙を溜めながら、必至に耐える。

「くっ……そ……」

 ――弱い者は、耐えるしかないのか? 弱い者は、誰も倒せないのか?誰からも虐げられる悔しさ。虚しさ。ディオスが、思わず意識を深く沈ませかけた、その時。

「何をしているのですか!」

 凛麗とした声が広場に響き渡った。

 美しい少女だ。華やかな風貌。ルビーのような美麗な瞳の少女。それが、ディオスの前で庇っている。白を基調とした衣装。その容姿はきらびやかで、張りのある唇は艷やかに映えていた。

 くっきりとした顔立ちが目を引き、銀糸の如き髪をなびかせる様は、それだけで絵画に思えるほど。美しくも可憐な少女である。

「げっ、パルティナ! またお前かよ!」

「どこにでも湧いてくるな!」

 パルティナは柳眉を逆立て瞳を紅々と輝かせていた。サキュバスの瞳だ。まだ若輩だが成人のサキュバス並みの魔眼は、その辺の魔族より凶悪だ。

 ディオスの幼なじみである少女は、あまりの惨状に怒気を声に含ませる。

「毎日毎日、弱いものイジメばかり! 恥というものをあなたたちは感じないのですか? 愚かな者たちですね!」

「……逃げろ、こいつが来たら分が悪い」

「魅了の魔眼で骨抜きにされちまうからな!」

「――いつもいいところで邪魔しやがって、クソ夢魔が!」

 ゴブリンとオークのロクでなし共が退散する。サキュバスが相手なのは、下級魔族には荷が勝ち過ぎる。パルティナは念のため周囲を警戒した後、ディオスに近づく。

「……ディオス。彼らへ反撃すべきです。ボロボロではないですか」

 銀色の長い髪をなびかせて、幼い頃からの付き合いであるパルティナが、憂いの表情で心配をしてくる。細く白い指が、ディオスの荒れた肌に触れようとして。

「――っ、離せ」

 ディオスは思わず、その手を振り払って半歩下がった。

「ディオス……」

「弱い者に反撃する権利なんてない。魔族たちにとって、弱さは恥だ」

「でも、ディオス。それでは……」

 パルティナの目に、憐憫が宿る。彼のために何かしてあげたい。けれど現実には助けに入ることしか出来ない。幼なじみとして歯がゆい現状。

 ディオスは深呼吸し、自分の泥だらけの体を手で払うと、毅然と告げてみせる。

「心配ない。このくらい平気だ。心配性なんだよ、お前は」

「どこがですか。ディオスもディオスです。武器なり罠なり、用意すれば良かったのに」

「起きがけに泥をぶっかけられたんだ。そんな暇はなかった」

 いつものことだ。就寝間際か森へ狩りに出向くとき、ボズたちは嫌がらせをしてくる。

 一回や二回だけならディオスは対策もしていたのだが、この五年間、さすがに毎日繰り返されると諦めてしまう。ディオスが策を施せばするほど、ボズたちは歓喜し、武器で脅し、嫌がらせはより苛烈になっていく悪循環。

「だとしても、対抗すべきです。防衛しなければますます彼らはつけ上げるでしょう。そうすればディオスの体にも影響が出てしまいます。だから――」

「パルティナ」

 声の性質が変わったことを、敏感にパルティナは感じ取った。肌に突き刺さるような視線と声音。顔を強張らせる少女に、ディオスは低い声音で告げていく。

「お前が、いつも俺に治療魔術をかけてくれるのは感謝している。心配してくれることにも。けれど、それが俺には耐え難いことなんだ」

「……ディオス。でも、わたしは」

 何か言いかけて、けれどパルティナは、ディオスの強い瞳に怯んで、しばらく目を伏せた。

「あなたが心配なんです。いつもあんな目に遭って……こんな有様で」

「余計なお世話と言っている。餌を施されているような気持ちになる。感謝はするが、迷惑だ」

 パルティナの瞳が、そのとき、悲しみではっきりと大きく揺れた。

「ごめん、なさい」

「……。いや、その。俺の方こそすまない。しばらく、一人にしてくれないか」

 無言でパルティナは膝枕をしていた格好から、無言でディオスから身を引いた。

 そのまま何度か振り返ると、近場の土と泥で出来た塔の影に向かい、サキュバスの少女は去って行ってしまった。


 ――それが、ディオスの心境を変えたきっかけだった。

「パルティナ。俺はしばらく、修練の旅に出ようと思う」

「……え。旅!? ディオス、一体どうして?」

 翌朝。魔族領特有の暗い空が広がる最中。黒い雲海が天を多い尽くしている時間帯。ディオスは静謐な空気の中、起こしにきてくれたパルティナの前で、静かな決意を口にしていた。

「理由は分かっているだろう? 俺は自分の境遇に耐えられない。ゴブリンやオークにも負ける日々。そんなのはもう沢山だ。この領地を出て東へ向かう」

「東の領地!? そんな、三つの砂漠と四つの山々を越えた先ですよ! 中流魔物でも辿り着けるかどうか……ディオス、危険です。考え直して」

「何度も悩んだ。でも決めたことだ。今さらここに留まることは出来ない」

「でも……っ」

 ディオスは、無言で目を瞑り、感情を制御しようとした。

 彼女に当たってはいけない。彼女は心の底から心配してくれているのだから。

「パルティナ」

 声音に真剣なものが含まれていたためだろう、彼女の表情に硬いものが交じる。

「俺はいつも自分の弱さに打ちのめされていた。ずっとお前に迷惑ばかりかけてきた。……そんな日が続くなんて嫌なんだ。だから、ごめん」

 銀髪の少女は、一瞬言い募ろうとして、ぐっと表情を引き締め――ほのかに笑った。

「……旅になんて出なくても、わたしが養ってあげますよ。それか、二人でどこかに逃げて静かに暮らしましょう? 小さな家に可愛い子供。それだけも十分だと思いませんか」

「……魅力的だが、格好悪い。俺は誰かに頼りっきりでは耐えられない。その光景が叶うとしたら、俺が強くなったときだ」

 パルティナは、こみあげる感情を必至に押し留めるように口元を引き結んだ。

今までの記憶、楽しい語り合い、川辺での談笑――何気ない日常の風景が思い起こされては消えていく。

「……もう会えないなんてこと、ないですよね?」

「もちろん。いつか俺は強くなって必ず戻ってくる。それまで、どうか待っていてくれ」

「……わたし、可憐ですから求婚されてしまうかもしれませんね。そうしたらディオスは横恋慕ですよ」

 冗談混じりに銀髪の少女がはにかむと、ディオスは至極真面目な表情を浮かべて言った。

「それなら心配ない。――結婚してくれ、パルティナ」

「え……えぇ!?」

「間違えた。……婚約してくれ、パルティナ。いつか俺がこの領地へ戻ったとき、俺が立派な悪魔になったときに、結婚式を挙げよう」

 幼なじみの少女は、ぎゅっと胸の前で両手を握り締めた。

そして大切な物でも貰ったかのように小さく頷き、ほんのわずかに頬を朱色に染めた。

「嬉しい。――はい。そうなったときのため、わたしも美貌を磨いておきましょう。強くなったあなたに見劣りしない、立派な夢魔になるために」

「ありがとう。……それじゃあ、もう行くから。領主様には、お前から連絡を――」


 ――そのとき、領地の全体に響くような、凄まじい轟音が足元を激震させた。


「な、なんだ?」

「かなり大きいです、一体何が……っ」

 激しい震動が何度も起こる。ディオスは咄嗟にパルティナを支え、大きな震動によろける彼女に手を貸した。小屋の窓越しに異変を察知しようと務める。

「ディオス、あれ!」

 パルティナが細い指で指し示す方向――集落の山の一つが崩壊する光景が視界に入ってきた。

 どこからか悲鳴が聴こえてくる。集落の魔物たちの困惑の声。バキバキバキッと、大樹が折れ、倒れ落ちる崩落音。ディオスたちは、互いに見つめ合った後、家を飛び出した。

 集落の高台に位置する家を出て、下の広場に向かう。

 そこには、建てられた土製や泥で塗り固めた建物が視界に映るはずだった。けれど集落は、逆巻く豪炎に覆われて、壊滅的な有様を晒していた。

「こ、れは……」

 家屋が破砕されている。紅蓮の炎が当たりを舐め尽くし、天空まで高々と黒煙と吐き出している。

 周囲に漂う、黒と紫色に染まった『霧』。濃密な黒紫の霧が空間を支配し、何十メートルもの柱を形成している。視界が見渡せない。火炎と霧が、秘境である集落広域を覆っていた。

「た、助けてくれ!」

「敵襲だ!」「警護のオーク部隊は何をしていたんだ!? ……ぐあっ!」

 霧の中、得体の知れない何者かによって同胞が襲われていた。

 相手の正体は分からない。霧が深すぎる。集落の魔物たちの悲鳴や怒号だけが、散発的に聞こえては途絶えていく。

「――行こう! 領主様の屋敷に向かえば安全なはずだ!」

 ディオスが、パルティナの手を引き走りかける。

 直後、小さな影が霧を突っ切ってきた。

「――ディ、ディオス! お、お前は……パルティナも無事だったのか!」

 ボズだ。いつもディオスに酷い仕打ちをしてきたゴブリンの片割れ。

 彼は子供ほどの体を震わせ、泣きそうな顔のまま向かって来る。

「ボズ……一体何があった? その傷は? ……他の、ガングとダルガスは?」

「ダルガスさんとは、はぐれた! ――ガングは……倒された」

 ディオスとパルティナは総身を強張らせた。

 ――倒された? あのガングが? いつも非道を繰り返していたゴブリンが。

 決して褒められる人格ではなかったが、同郷の魔物が――倒された。

「この集落はもう終わりだ! 『殺戮のヒューレイグ』にやられる!」

「……っ、まさか」

 『四本腕のヒューレイグ』。あるいは、『殺戮のヒューレイグ』。

 それは、数多いる魔族の中でも脅威とされる存在。魔族には、時折だが強力な個体が生まれ出ることがあり、特異種とも呼ばれる――強く恐ろしい、苛烈な危険種。

「そ、そんな訳ないだろう! あいつは遥か西で活動しているはずだ。なぜこんな辺境に」

「わからない! でも確かに見た! 四本腕のガーゴイルが! 殺戮のヒューレイグが! くも……もう駄目だ、この集落は終わりだ……っ」

「――ディオス、逃げましょう! それが本当ならわたしたちに勝ち目はありません。ダルガスはもちろん、領主のリーバルド様ですら……」

 パルティナが蒼白色の表情を浮かべ急かした。魔王の下にあり、高位とされる魔物は領地を与えられる。領主はディオスらより強大だ。それですら勝ち目はないとパルティナは評する。

「……信じたくないが、逃げるしかない、か。――ボズ、お前はどうする?」

「逃げるに決まってるだろ! あんな化け物に勝てるわけあるか! ガングが虫けらのようにやられた! あんな光景、俺は嫌だ! ……あ、ああ!?」

 雷迅のように強烈な槍が、ボズの背中に突き刺さった。

 何が起きたのか分からないまま、彼は吹き飛んだ。

 後方の林のほうに弾かれる。飛来した『槍』が、ひとりでに来た軌跡を戻り、霧の中に吸い込まれていく。

 自律式の槍だ。魔術の槍。霧の中から、金属をすり合わせたような声が聴こえる。

「――ギ、ギ、ギ。辺境を渡り歩いていたら、面白い所を見つけましタ」

 霧が内側から払われる。細く、硬質な石の腕。見上げるような巨体。腕は四本、いずれも奇怪な意匠の槍で、体にはまるで桐のような先端の尾と、巨大な石の翼が視界を覆うように広がっている。

 殺戮のヒューレイグ。魔族たちの中で災害とも恐れられた、石像の大悪魔。

「あ……れは……」

 パルティナが怯えている。ディオスの小さな手を、軋むほど強く握り締める。

「――ゴブリンとオークばかりがいる集落でス! コれほど多くの虫けらがいる場所は初めてですネ! ここは楽しい牧場! ワタシ、楽しイ!」

 ヒューレイグは、哄笑した後、周囲の瓦礫を長い槍の一本で弾き飛ばす。それだけで瓦礫は彼方に飛び、残骸すら判然としない木っ端になって砕け散る。

「ディオス、急いで退避を……っ」

「わかっているが……でも体がっ」

 全身が硬直している。どれほど強固な意志があろうと、恐怖が縛り付ける。

 本物の石像の形をした――悪魔を超えた脅威の塊に、小さな悪魔や夢魔たちは動けない。

「クヒ! 目の前にはインプが一匹! サキュバスが一匹! ――ギキ、これもまた楽しい座興! 弱き者の心臓を抉る。それがワタシの楽しみ――」

「――させると思うか?」

 ヒューレイグの横っ面に、強烈な勢いの鉄球が叩きつけられた。石像の悪魔は、笑った顔のまま吹き飛び、いくつか建物を粉砕し、奥の林で止まった。

 強力な魔力を持つ魔族が、火炎や霧を切り裂いて降り立つ。瀟洒な外套。壮麗な錫杖。もう片腕には棘を備えた鉄球。この地における絶対者。貴族種であり統制を任された者。

 ――領主リーバルド。この領地における、最強たる存在。

「リ、リーバルド様!」

「良かった、ご無事で……っ」

「ディオス、パルティナ。もう大丈夫だ。――音に聞く殺戮のヒューレイグか。一度手合わせしたいと思っていたが、よもやこんな殺戮者だったとは」

 リーベルドが酷評し鉄球を下ろすと、直後に大地が激震した。彼方にある林の中で、吹き飛ばされたヒューレイグが、感情のままに槍を叩きつけた音だ。

「ハハッ、ハハハハハハッ!」

 一瞬後、ヒューレイグが信じがたい跳躍力で距離を詰め、リーバルドに槍を叩きつける。

「おや? おやおや? あなたは領主リーバルド様ですネ! 辺境を任された、老いぼれオーガではないですカ!」

「経験は自力を底上げする。我は数千年を生きた。貴様ごときに負ける道理はない」

「ギキ、いいですネ! それでこそ領主――その気概、殺し甲斐がアりマス!」

 槍の猛撃をかわし、反転して鉄球をぶつけるリーバルド。彼が背後の地面に後退する。ヒューレイグが、跳躍して神速の槍撃を突き込む。

 瞬間、リーバルドが左手の錫杖で華麗に受け流し、右腕の鉄球で反撃していく。

 しかし、戦況は徐々に絶望的となっていった。――リーバルドが押されていく。ヒューレイグは淡々と四本の腕を器用に操り、刺突や薙ぎ払い――絶技でリーバルドを追い詰めていく。

「そんな……馬鹿な……」

 ディオスは愕然とする。この領地において最強であるはずのリーベルドですら勝てない、

「――っ、思ったよりも、速い――しかし、がっ……!?」

 胴体に痛烈な一撃をもらったリーバルドが、膝をつく。そのまま荒い息をついた。

「はあ……はあ……はあっ」

『領主さまっ!』

「ギ――ギギギッ! 領主リーベルド、破れたりィィィッ!」

「に、逃げろ……ディオス、パルティナッ!」

 おびただしい量の血を流しながら、リーベルドが命令する。全身が血に染まっていた。服は破れ、体の幾ヶ所にも裂傷。ディオスとパルティナは震えたまま首を横に振るしかない。

「そんな……出来ません!」

「リーバルド様、あなたも一緒に……っ!」

「――一人でも逃げなければ。全滅して終わる。だが、逃げれば機会はある。再起を図れ」

 インプにサキュバス。戦闘力に乏しい種族では、どうやっても逃げ切れない。

 悔しさで、苦しさで、ディオスは震える。せめてパルティナだけでも逃したい。彼女は、自分をいつも気遣ってくれた。かけがいのない存在だ。

 彼女といつか結婚して、幸せな光景を営むと夢を見た。けれど、そんなものは幻想になるだろう。彼の命運は、ヒューレイグという殺戮の石悪魔に散らされる。何を成すことなく終わりになる未来。

 ――いや。

 ――本当に、それでいいのか?

 ――こんな形で終わらせて、何もかも台無しにされていいのか?

 否! それは嫌だ! 嫌だ! 絶対に許せない! 煮えたぎる想いが、ディオスの底から湧き出していく。それは怒りだ。目の前の怪物を倒せ! 駆逐しろ! 種族の差を超えて滅ぼせ! 魔族の根源にわだかまる殺戮の本能を呼び起こせ!

 ヒューレイグが、余裕の顔で羽を広げる。膨大な魔力をその腕に込める。今まさに、四本腕を振り回し、重傷のリーバルドへ、止めの一撃をもたらしかけたとき――。

「……せ、ない」


 ――ディオスの体から――膨大な魔力が膨れ上がり、周囲へと荒れ狂った。


「……っ! なんダ?」

 ヒューレイグは思わず警戒心をあらわにし、飛び退いた。

 ディオスが幽鬼の如く、ゆっくりと進む。一歩。また一歩と。睨みながら。思わず、ヒューレイグが狼狽える。

 魔族の間では災害とも畏れられた存在が、目の前の、たった一人の――最弱であるはずのインプに動揺していた。

「――っ、アナタは、一体……」

「……せ、ない。誰も……殺させない!」

 ヒューレイグは咄嗟に、『解析眼』という力を開放した。相手の状態を視覚化し、情報を得る力である。それに映った眼の前のインプの状態に、ヒューレイグは驚愕する。


【ディオス  種族:インプ  等級(レベル):3

特性:『無限成長』  『■■■■■』  『■■の■■■』 『■■の■■』】


 ヒューレイグは、目の前の光景に絶句していた。

 解析が出来ない。不完全にしか出来ない。まさか、そんな、そんな!

 彼を震撼させたのはそれだけではなかった。ディオスの等級――通称『レベル』、または熟練度と呼ばれる――『成長の度合い』を示す数値が、異常な値を示していた。


【ディオス  等級:3 → 4】 【4 → 5】 【5 → 6】 【6 → 7】


 あり得ないほど上がっていく。本来、修練を重ねないと上昇しないレベルが、目前で常識を破り、目まぐるしく上昇していく。つい先程までは【7】だったものが【8】となり、【9】となり、さらに【10】に上がり、【11】に、【12】に、【13】へ上昇する。

 ヒューレイグは慄いたまま後退する。

「(――殺さねばならない。この不気味な存在を!)」

 ヒューレイグは結論し、四本の腕を操り長槍を振りかぶった。


【ディオス  等級:13 → 14】 【14 → 15】 【15 → 16】


 しかし、上がり続けるディオスのレベルを前に、ヒューレイグの攻撃は叶わなかった。

 いつの間にか、彼の体が震えている。いや、押さえつけられている。信じがたいことに、ヒューレイグは自分で、自分の腕を抑えつけていた。

「なん、ですカ……?」

 ヒューレイグが思わず振り向いたとき、さらなる衝撃が彼を襲った。


「――ディオスを襲うなど、このわたしが許しません」


 サキュバスの少女、パルティナがその『瞳』を紅く輝かせていた。

 先程までの怯えはどこにも存在しない。性格、いや、性質が丸ごと塗り替えられたかのように、それは圧倒的な強者、存在そのものが向上した冷徹な女王のものだった。

「(――馬鹿な!? あれは邪眼!? 上位悪魔や巨人しか持ち得ないものが、何故!?)」

 サキュバスは魅了の魔眼を使えるが、あれは違う。それを凌駕する力。

 ヒューレイグは咄嗟に身を捻ろうとするが、それは叶わない。パルティナの妖しく光る『邪眼』が、千の鎖で縛ったかのように石像悪魔の体を縛り、絶対に許さない。

「ディオスに仇をなす者に、裁きを」

 静かな声が、その場に響き渡る。銀色の長髪。紅き瞳。それらがさらに美しく尊く輝いていく。肌が、首が、脚が、手が、体の全てが、艷やかに輝き、見る者を虜にしていく。

 ヒューレイグは理解した。この現象に覚えがある。この名前を知っている。

 ――『完全魅了』。

 異性を誘惑し、思うままに操る能力。

 ヒューレイグは思い出した。古代の書物に、部分的にしか残されていない知識がある。ほとんど口欠けていたが、確かに記されていた記憶を想起した。

『大淫婦(バビロン)』。

 サキュバスの上位種――『姫君(プリンセス)』と呼ばれる上位種――さらにその上の『女王(クイーン)』すらも超える者を、『大淫婦(バビロン)』と呼ぶ。

 伝説に記された『大淫婦(バビロン)』は、まさに神の如き力を持つ存在だと言う。かつて神々すら縛られ敗北したとあった。ならば殺戮しか出来ない石像に、抗うわけがない。

「――ギ、ギ、ギ! サキュバスの娘! アナタは――」

 ヒューレイグにとって、それが最後の言葉となった。

「――大淫婦(バビロン)たるわたしが命じます。――自害しなさい。ヒューレイグ」

「う、ああアアッ!」

 命令が浸透すると同時、ヒューレイグは自分の胸に槍を突き刺した。

 殺戮のガーゴイルを殺せるのは彼の武器(槍)だけだ。甲高い炸裂音と共に胸部が破砕され、核である部分が砕け散る。

「(――グ。ワタシは、近づいてはならぬ禁忌に触れたのカ? この『二人』を目覚めさせるべきではなかっタ。『こいつら』は――)」

 ヒューレイグの意識は、そこで途絶え、掻き消えた。パルティナの魅了、ディオスの進化、その二つに意識を奪われた時点で、殺戮のガーゴイルの命運は尽きていた。


†   †


 ――今から数千年前。

 世界の西端に、『黒虚』と呼ばれる、瘴気に満ちた孔が出現した。

 黒虚から出現した多種多様な生物たちは、人を、動物を、文明を侵略していった。

 人類は対抗すべく神々の助力を得てこれに対抗したが、戦乱は長きに渡り続いた。

 人を害する存在を魔物――あるいは魔族と呼び、その頂点たる主を――【魔王】と呼ぶ。

 【魔王】は人間に仇なす者として君臨し続け、人間の文明を破壊し尽くしていった。

 幾多の国家を滅ぼし、英雄を打破し、その一方で、人類の模倣を行い、集落を作り、家族の形態すら模してその発展に務めていった。

 知性があり、武力があり、人間を害することを至上の喜びとする存在、それこそが魔族。


 ――これは、その魔族の中でも【魔王】に至る、二人の悪魔と夢魔の物語。

 彼らは生まれつきの驚異的な能力と、互いへの信頼を糧にして長い旅を行った。底辺から上位の悪魔へ。さらには――最強たる【魔王】を討ち果たし、見事に魔族全体の支配者となる。


 けれど、これはディオスたちの英雄譚ではない。

 彼らの血の滲むような、努力と研鑚の物語ではなく、さらなる『先』。


 ヒューレイグを倒し、多くの大悪魔を倒し、さらには魔王すら討ち果たした、『後』の話。

 ――序幕は終わりを告げた。これからが第一幕となる。

 魑魅魍魎が跋扈する魔族の軍勢を蹴散らし、強者をねじ伏せ、魔王として統治を果たしたディオス――彼が、500年にも及ぶ長き治世を成した後、本当の幕は上がっていく。

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