第1話 神様が降りてきた日
随分と風が涼しい夜だった。オレがダンスを始めた春が終わって、夏が来る少し前。
街はまだ眠らず、でも空気は静かで、どこか浮き足立っていた。
(まじで……俺、来ちゃったよ……)
高層ビルの裏手。錆びた非常階段を見上げながら、オレは思わず呟いた。
スマホの画面には、何度も確認した通知が表示されてる。
【夜踊】ナイトセッションオフ会
参加者:15名限定|都内某所ルーフトップスタジオ
日時:本日 19:30~
主催:Ren
場所の詳細はDMをご確認ください(Flapにて)
心臓がドクドクしてる。今にも跳び出しそうだ。
ジャンプしたときじゃない。ただ、ただ、緊張してる。動画も一度も投稿してないクセに、参加しますなんて言っちゃってさ!?オレまじどうかしてるよな。自分の猪突猛進さには自分でも頭を抱える。
オフ会の告知を見つけたのは、昨日の深夜だった。
(俺……バカか……!?)
⸻
それは、いつものように踊った夜だった。
カーテンを閉めて、部屋を暗くして、イヤホンで音楽を流して。
《月下独奏》を見ながら何度も体を動かして、汗だくになって、でも幸せで。
「今日こそ動画撮って投稿しよう……」
そう思って、スマホを手に取ったはずだった。
けど。
投稿ボタンの手前で、指が止まった。
(……まだ、だめだ。こんなんじゃ、あの人には、届かない)
自信がなかった。まだ怖かった。
だけど、もうひとつ別のアプリを開いた。
Flap《フラップ》。
短文・動画・写真を気軽に投稿できるSNS。オレがRenを見つけたFlipBeatとの連携が強く、「ダンス好き」「音楽好き」たちの間で特に人気。日常のつぶやきから、練習風景、動画リンクのシェアまで自由度が高い。
FlipBeatで見たダンサーの多くが、ここでも活動していた。
何気なく「#夜踊」で検索したそのとき、偶然流れてきたのが——
【告知】夜踊ナイトセッション開催します。
初心者歓迎。踊りたい夜を過ごしましょう。
by Ren
目の前の文字に、思考が止まった。
気づいたら、指が「参加希望」のボタンを押していた。
⸻
(しかも、“初心者歓迎”とか……マジで行っていいのか?俺なんかが)
でも、押しちゃったもんはもう戻せない。少年よ、大志を抱け。ボーイズビーアンビシャスだ。
口から心臓が出そうなくらいにはドキドキした毎日を送って、そしてスマホに届いたDMに記載されていたのは、駅近くのビルの屋上スタジオ。
「……行こう」
自分の中の何かが、そう言った。
だから今、ここにいる。
意を決して階段を上がる。靴の裏が鉄を踏む音が、やけに大きく響く。オレ、生きて帰れるのかな。怖い人だったらどうしよう、誰もいなかったらどうする?オレ、泣くけど普通に。年甲斐もなく大号泣しますけど。
屋上のドアを開ける。
——目の前に、風と音が、広がっていた。
ビルの屋上。仮設のライト。スピーカーからはローファイなビートが流れてる。夜の街を背にして、何人かがすでに輪になって、軽く身体を揺らしていた。
(すげ……本当に、踊ってる……)
見慣れない顔ばかり。でも、空気はどこか優しい。
その中心に、いた。
黒いロングシャツ。乱れた銀髪。
そして、静かにステップを踏む、その背中。
(……Ren)
オレの心臓を跳ねさせた、あの人が、本当に目の前にいた。すると、Renがふと振り返る。
人懐っこい笑みを浮かべて、こっちへ一歩、近づいた。
「初めまして、かな?」
細身だけどしなやかで、柔軟性のあるダンサー体型、キラキラと光る銀髪の前髪は長め。踊る時に片耳が見えるくらい流していて、光の加減で青みがかって見える瞳は深い黒に近い灰色。感情をあまり見せないけど、踊っているときだけは強く光って見えた。
ーーオレの、神様。
オレの喉が一瞬つまる。でも、言葉は自然に出た。
「……はい。ハルです。参加、希望した……」
Renは軽くうなずいて、微笑んだ。
「来てくれてありがとう、ハル。……ね、踊るの、好き?」
オレは、その問いに、迷わず頷いた。
「大好きです」
その瞬間、Renがぱっと笑った。
太陽じゃない、月みたいな、静かなあたたかさがあるそんな笑顔だ。
「じゃあ、今夜は踊ろう。好きなだけ」
夜が始まった。音楽がまた、跳ねる。オレの心臓も、一緒に跳ねた。月下独奏が流れるこの場所にオレはいるんだと、今更気付いた。
「あ、この曲?
おれ、大好きなんだよね。今日は皆とこれを踊りたいなーって思って。
みんなー?そろそろ始めるから、
とりあえず見てて!」
そうやって一声かけると、みんなスマホを各々取り出して動画を撮る準備を始める。あまりにも素早いその動作に、オレも慌ててスマホを取り出した。
目の前で、Renの月下独奏が、始まる。
ピアノの旋律がゆっくりと入り込む。
それに呼応するように、彼は動き出した。
最初の一歩が、やっぱりオレにとっては異常だった。
ただ歩き出しただけなのに、その一歩に“意味”があった。次の動きは、手を斜めに振るような、緩やかなステップ。腕の先、指の一つひとつまで、まるで何かと対話しているようだ。
「誰にも認識されないまま」
——歌詞とともに、彼の顔が月光に照らされる。
それは“仮面”のような無表情で、けれど不思議と目が離せなかった。
彼は跳ばない。
だけど、宙に浮いているように見える。それはずっとだ。何回だって見てきたんだ。
膝を深く折って沈み、ぐっと胸のあたりを押さえてから、
今にも崩れそうな姿勢でスローモーションのように回り込む。シャツの裾がひらりと舞って、そこに光が当たった。
「跳んだ 跳んだ 自分の声で」
——そのとき、初めて跳躍が入る。え、こんな振り、なかったよな!?
重力を騙すようなゆっくりとしたジャンプ。
でもそれは、歓声を求めるような華やかさじゃない。
彼の踊りは、“独白”だ。
自分の心の奥でだけ響いている音を、
そのまま体に流しているようだった。
孤独、諦め、願い、痛み。
その全部が、動きになっていた。
曲が終わる瞬間、彼は月を見上げる。
風が吹いて、シャツが揺れた。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
——終わった。
Renが踊り終えた瞬間、あたりは一瞬、静寂に包まれた。誰もがスマホ越しにその瞬間を目に焼きつけていた。けれど、誰も言葉を発さない。
ただ、風と音楽の余韻に浸っている。
そんな中、Renがふと振り返り、オレを見た。
まっすぐに、名前を呼ぶような目で。
「ねえ、ハル。次、一緒に踊らない?」
一瞬、また、言葉が喉につかえた。けど、オレの体が先にうなずいてた。
(……まじで?オレが、Renと?)
夢みたいだった。でも、もう始まる。
音楽がリピートされて、また最初の旋律が流れた。
Renが一歩、踏み出す。それに合わせて、オレも動き出す。
動きは覚えていた。だって何度も、繰り返し踊った。Renの振りに、自分なりの精一杯の気持ちを込めて、オレは動いた。
——だけど、目の前の本物は、やっぱり“本物”だった。
動きの一つ一つに、心がある。言葉がある。
オレはそれに必死に喰らいついた。最初はただなぞるだけだった。だけど、途中から気づいた。
(……この曲、Renの“独奏”だったかもしれないけど、今は違う)
今、オレはここにいる。
オレの“声”だって、ここにあっていいんじゃないか。
次の瞬間、自然と身体が跳ねた。
オレの得意な、跳ぶこと。空をくるりと空中で一回転。
月の光が、背中に差した。
着地した瞬間、Renの動きが一瞬、止まった。
——驚いてる。
感情をあまり見せないあの瞳が、はっきりと揺れてた。
でも、すぐに微笑んだ。
嬉しそうに、どこかくすぐったそうに。
それからRenの動きが変わった。まるでオレに応えるように、踊りが柔らかくなる。
音の中で、会話をしてるみたいだった。
二人で踊る《月下独奏》。
それはもう、独奏じゃなかった。
月の下で、孤独を分け合うような、
いや——孤独に手を伸ばすような、そんな二重奏だった。
曲が終わった瞬間、Renがふっと笑って、オレの肩に手を置いた。
「すごいね、ハル。……あんな風に、跳ぶんだね」
その声は、たしかにオレを見ていた。
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