3-5 プリヤ、母に会う

 大自然の脅威さえも克服したプリヤは、さらに意気軒昂に登攀を続けた。

 すでに半分以上は登っているが、次はどんな試練が待ち構えているのだろうか。プリヤは何であろうと大歓迎という気持ちだった。

 すると、周囲が少しずつ白い霧で覆われ始めた。


「ん……今度は視界を閉ざそうってことかな?」


 見上げた先はおぼろげになり、ほとんど見通せなくなった。

 手元くらいは見えるが、考えもなしに進むのは危なそうだと判断し、プリヤはその場に留まった。


「……これ、普通の霧じゃなさそう」


 上手く言えないが、何か怪しげな雰囲気だった。慎重に気配を巡らせる。

 その時だった。強い風が起こり、プリヤの体に吹き付けた。

 もちろんその程度で飛ばされてしまうプリヤではない。しっかりとチャクラを回し、体幹を保って岩肌にくっつき、風が収まるまで堪える。

 ふと、プリヤは体が浮いたような感覚を覚えた。掴まっていたはずの岩の感覚も消える。


「……えっ?」


 プリヤはいつの間にか、茶色い地面に立っていた。

 そこはマリヴヤ山ではなかった。道が延び、軒が並び、人が行き交っている。

 明らかにどこかの町だった。プリヤはただ呆然と立ち尽くした。


「困ったなぁ。竜神さんの力で飛ばされちゃったのかな……」

「プリヤ」


 ふいに声をかけられた。優しい女性の声だった。

 振り向くとそこに、穏やかな顔つきの婦人の姿があった。


「あなたは誰ですか?」

「私はあなたの母ですよ、プリヤ」


 プリヤの体に稲妻が走った。


「お母さん? あなたがわたしのお母さんですって?」

「そうです。霊峰ナンダ・ジージの麓にあなたを捨てた愚かな女、それが私……」


 よく見れば顔つきが自分に似ているような……そんなことを思っていると、女性の両目に涙が溜まっていった。


「ごめんなさい。どうしてもあの時の自分では、あなたを育てられなかったの。……でも、あなたのことを思い出さない日はなかったわ。そんな時、竜神様が声をかけてくださったの。娘に会わせてやると」

「竜神さんが、そんなことを?」

「ええ、そしてあなたはここに現れた……なんて立派に成長したの! 嬉しいわプリヤ」


 母と名乗るその女性は、プリヤをそっと抱きしめた。

 プリヤはかつてないほど温かい気持ちを抱いた。これが母のぬくもり……?


「竜神様の思し召しよ。今まで寂しい思いをさせたわね」

「お母さん……」

「さあ、これからは母と共に暮らしましょう。こんな戦乱の時代だけど、ふたりで力を合わせて生きていきましょうね」

「いけません、わたしにはやるべきことがあるのです」

「竜神様の子を産んで英雄とし、世界を正すという? そんな大変なこと、あなたがする必要はないのよ。私と一緒に普通の人生を歩んでいきましょう」


 プリヤは自分を捨てた母親のことを何も知らない。

 けれど、この人は違う――そう直感した。

 母親なら娘の夢を、そう簡単に否定しないはず。

 プリヤは奥歯を噛みしめ、温かい腕を突き放した。


「あなたは、わたしのお母さんじゃありません」

「プリヤ、何を言うの」

「本当にあなたがわたしのお母さんなら、知ってるはずですよね。わたしを捨てた時に残した置き手紙のことを」

「え、ええ! もちろんよ。ただ、昔の話だからどんなことを書いたかまでは……」

「わたしの名前を書いたことくらいは覚えていますよね?」

「それはもちろん! プリヤ、愛しい娘の名前だもの」


 決定的な言葉に、プリヤは嘆息した。


「プリヤという名は、聖仙シーリさまに付けていただいたものです。お母さんは……わたしに名前すら与えてはくれなかった。そんな余裕もなかった」


 きっと、それほどまでに傷ついていた。産み落とした子の人生も名前もすべて、誰かに託すしか仕方なかったのだ……。


「あなたは真っ赤な偽者です! てやあああっ!」

「ぎゃあああああっ!」


 掌底を見舞われ、女性は悲鳴を上げた。

 直後、世界は崩れ、真っ白になった。


 ――気がつけばプリヤは元通り、マリヴヤ山の岩肌にくっつき登攀の姿勢を取っていた。

 その側に、煙の塊のような不定形の何かが浮かんでいた。ボンヤリと赤く光る両目だけしかないが、焦っているのがわかる。


「お、おのれ! よくもだましてくれたな」

「悪霊さん、あなたが幻影を見せていたんだね。最初にだましたのはそっちじゃない」

「いやまあそれもそうだが! ちくしょう、聖仙でもだいたいはここで脱落するというのに」

「どうやってあんな幻影を見せたの?」

「俺は人の心を読み取るのが得意なんだ。だからお前の名も、今日までどう生きてきたかも、この竜の峰を登っている目的も……内心、自分を捨てた母親を求めていることもわかったのだ」


 しかし悪霊が読み取れたのは、プリヤが物心ついた時からのこと。

 プリヤと名付けたのは母ではなく、彼女を拾った聖仙シーリ。そこまでは把握できなかったのである。


「ええい、つまらん。早う行け」

「もう邪魔はしないの?」

「俺は幻影を見せる以外に能がないんだ。それが通用しないとわかった以上、もう何もできん。さっさと先に行くがいい」

「うん、そうする」


 プリヤは再び山頂を目指すべく動こうとして……もう一度悪霊を振り返る。


「ありがとう! 幻影とはいえ、お母さんの温もりを味わわせてくれて」

「……っ、まったく調子の狂う娘だ」

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