叫び続けた無音の声
@sumochi
第1話
暗く広い建物の中。天井のガラス窓から月明かりが差し込んでいたのを覚えている。辺りは瓦礫や廃材が散らかり、床は砂埃に覆われていた。
これは、幼い頃に焼きついた原風景。ぼくは吹き抜けの真下に立っていて、見上げるといくつかの階層が上に伸びていた。
四階、いや五階だったか。どこの階も暗闇が広がっていて、じっと見ていると腰の辺りがむずむずして、足が脱力感していく。
こんなところ、一刻も早く出ていくべきだ。幼いぼくでもそれくらいのことは考えた。だけど、どうやって。どこに行けばいい。
自分の家のことも、両親の顔も、頭には思い浮かばなかった。当然だろう。そこは普段見る世界とはあまりにもかけ離れていて、日常の風景が入り込む余地は微塵もない。
辺りには時折、物音が響いた。そのほとんどが、月明かりが届かない暗闇の中か、瓦礫や壁の向こうから聞こえる。
ぼくがいる階の、眼が効く範囲だけでも数室の部屋があった。音の出所や正体を確かめる気になんてなれない。ぼくが踏み出せるのは光に照らされた部分だけ。建物の広さからすればそれは、とても狭い。
物音に混じって足音が聞こえた。
小さく軽い足音だ。音はこちらに近づいてくる。思わず身をかがめたくなった。そうすることに理由はない。多分、本能みたいなものだ。
両手で頭を覆い、震えながら目を閉じた。足音が通り過ぎるのを願っていたんだと思う。ならば、物陰にでも隠れていれば良かったのに。そのときのぼくには、そんなことに気を回す余裕なんてなかった。
足音は繰り返され、足音は大きくなり、そして足音は止まった。
ぼくのすぐそばで。
いや、そんなはずはないとぼくはぼくに言い聞かせる。しかし、ぼくの正面に誰かが立っている気配があった。自分を落ち着かせるために浅い呼吸を繰り返し、そうしている内に息が上手く吐き出せなくなった。
ゆっくりと目を開ける。ひび割れたタイルの床に影が一つ。ぼくの影だ。少し、少しだけ視線を上げる。また少し。一気に顔を上げる度胸はなかった。少しずつ、首を、それから視線を上げる。そうしていると、視界の上辺に靴先があるのに気づいてしまった。途端に全身が震え出す。その靴先は赤かった。よりにもよって、赤いとは。際立って目立つ赤い色に否応なしに注目してしまう。見たくもないのに。見なかったことにしておきたいのに。何度も瞬きをするけれど、赤い靴がぼくの視界から消えることはなかった。
ぼくの前に立ったその靴は、子供用のローファーだった。艶のある赤色をしている。
「イーサン」
酷く擦れた少女の声だ。
「イー……サン」
声が出ない。代わりにぼくはゆっくりと顔を上げる。
「もう大丈夫よ」
裂け目が刻まれた頬。片目の瞼が爛れた瞳。顎の骨の一部が剥き出しになった顔の少女が、赤い靴を履いて立っていた。
彼女はクレア。〈オムニヴァレ社〉製の〈CareMate〉という育児補助を担うアンドロイドで、仕事で家を空けがちな両親の代わりに、ぼくの世話をするため家にやってきた。
一年前のことになる。家の前に停まったトラックからメーカーの担当者に手を引かれた少女が荷台から降りてくるのが窓越しに見えた。玄関のチャイムが鳴る。その日の音はいつにも増して際立って聞こえた。
ドアを開けると、メーカーの担当者は小難しい言葉を交えた挨拶を始めた。それが売買契約上の責任を回避するためのマニュアルの音読だと知ったのは、自分のバイクを持ったときのこと。
「これからは、彼女もあなたの家族になるの。仲良くしてあげてね」
彼女は挨拶をそう締め括った。
「ここは危ないわ」
クレアは視線の定まらない瞳でぼくを見降ろし、それから指が二本欠けた手を差し伸べた。
彼女はぼくを迎えに来たのではない。
「一緒に行きましょう」
彼女こそが、ぼくをここに連れ込んだ張本人だ。
ぼくは返事をすることも、彼女の手を取ることもできなかった。そうしている内に、どこか……どこからかは解らないが、遠くの方でサイレンが聞こえた。クレアは崩れた顔で、表情を崩さず、ぼくに微笑み続ける。
それから、立て続けに色々なことが起こった。クレアの後ろから大勢の人が近づく足音。月明かりが影っているのに気づいて上を見ると、天井の窓に数人の人の姿があった。瓦礫が崩れる音。幾人かの大人の男が怒鳴る声。
ぼくの頭は酷く混乱していた。ガラスが割れる音。何か大きなものが壊れる音。喚く大人たちの声。目の前には崩れた顔のクレアが立ちはだかっている。ぼくは、ぼくはどうしたら良いのか。
「イーサン」
クレアはもう一度ぼくを呼んだ。
そのあとに彼女が何を言おうとしていたのか、確かめる術はもうない。
武装した警官たちがクレアの背後からやって来て、彼女を銃弾でハチの巣にしたからだ。
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