6.秘密
幼い弟の手を握って眠ったのは、もうずっと前のこと。
弟を失ってからは、目が覚めるといつだって陽炎が傍にいてくれた。身体の中に別の何かが入り込んだ日は怖い夢にうなされて、その度に陽炎のひんやりとした手が蓮華を悪夢から救い出してくれた。
額に触れる冷たい手が心地よくて、その手を自分の頬に擦り寄せて眠るのが堪らなく好きだった。
仕事にも慣れて怖い夢も見なくなった頃には、陽炎が寝室に立ち入ることもなくなり、眠りから覚めればいつも一人きり。
寂しかった。ずっと。
「……陽炎」
「なんですか、お嬢」
蓮華は薄っすらと目を開けて、両手で掴んでいる自分より大きな手に鼻先を擦り寄せた。
「どこにも行かないで……」
「どこにも行きませんよ。まだ夢の中にいるんですか?」
「……夢?」
何度か瞬きを繰り返してから声の方へ目を上げると、枕元で胡座をかいている陽炎を見つけた。黒のネクタイを締めたスーツ姿で、いつも通り着衣の乱れはひとつもない。
「きゃあ! 陽炎……! なんで部屋にいるの!」
慌てて起き上がった蓮華は、胸元の覗く緩んだ寝間着の合わせを両手で握り締め、顔を真っ赤に染め上げた。
「なんでと言われましても……」
困ったように笑みを作って首を傾げた陽炎が再び口を開く前に、蓮華は手のひらを彼に向かって突き出す。
「待って、何も言わないで……! 分かってるから……!」
陽炎から顔を背けて混乱する頭を働かせながら、なんとか自分を落ち着かせようと深呼吸をした。
昨日はそう、陽炎といろいろあった。
妖である陽炎と契約を交わし、彼のものになることを決めた。契約したからと言って具体的な変化があったわけではないが、蓮華の中にある加護が陽炎に働かなくなったことだけは確かだ。
なぜなら、昨日自分の身に起こった出来事を蓮華はすべて覚えているからだ。正確には時々意識が飛ぶようなぼんやりとした瞬間もあったが、とても夢では片付けられないあれやこれやがはっきりと記憶に刻まれている。
夢が夢でなかった時、どんな顔をして陽炎と会話をすればいいのか。
「その反応を見る限り、今度は覚えていてくれたんですね、お嬢」
近付いた顔が悪戯な笑みを湛えているのを見て、蓮華の頬はますます赤みを帯びた。全身が熱くなって、汗が吹き出す。
「続きします? 脱ぎましょうか?」
ネクタイを解く素振りで冗談を言う陽炎に眩暈すら覚えて、蓮華は無言で立ち上がった。
「お嬢? どこ行くんです?」
居間へと続く戸を引いてから一度立ち止まり、振り向くことなく質問に答える。
「お風呂! もうっ……! いいから出てって!」
言ってから後ろ手でぴしゃりと戸を閉めると、陽炎の呑気な返事が聞こえてきた。
照れ隠しだと気付かれている。
胸の高鳴りをうるさく感じた朝は、寂しいなんて思う暇がないくらいに、陽炎のことで頭がいっぱいになった。
* * *
鮮やかに咲いていた彼岸花が萎れ、本家の廊下にも冷たい空気が漂う季節になってきた。昔ながらの和の邸宅は広く居室も多い分、長い廊下は寒さが沁みる。
蓮華はこの日も訪れた客を相手に、いつも通り仕事をする予定だった。なんでもそのお客はここ半年ほどずっと身体に倦怠感があり、肩も重くて仕方がないと言うことだった。医者に行って検査をしても原因が何も見つからず、知り合いからの紹介で秋月家を訪ねて来たそうだ。
「陽炎、どうしよう……」
「何かあったんですか?」
客間の戸を開けて廊下で待つ陽炎をこっそり呼んだ蓮華は、彼の袖を引いて震え声で囁いた。
「お客様に何か憑いているのは分かるんだけど、こっちに入ってきてくれないの」
蓮華の言葉に陽炎は僅かに開いた戸の隙間から客間に視線を送ると、ああ、と頷いた。
「悪霊が肩に乗ってますね。あれは重そうだ」
「いつもならすぐ私に寄ってくるはずなのに……来ないの」
「……くっついているだけですから、私が対処しましょうか? 中に入っている場合は私が食べると憑かれてる方も死んでしまいますが、あれを引き剥がすぐらいなら問題ないでしょう」
陽炎は言うなり客間に入ると、正座している客に爽やかに挨拶をして、肩に憑いている悪霊を無理矢理引き剥がした。
掴んだ悪霊を握り潰すように消滅させると、にっこり笑って終わったことを告げる。何も見えない客はたった数秒で肩が軽くなったことに驚き、陽炎に深々と頭を下げて御礼を言っていた。
一部始終を見守っていた蓮華は、客に挨拶だけしてそそくさと客間を後にする。
「お嬢、待ってください」
追ってきた陽炎に腕を掴まれると、その場で足を止めた。
「大丈夫ですか?」
「陽炎……どうしよう……こんなこと今まで一度もなかったのに」
動揺から震える手を摩りながら、血の気の引いた顔を左右に小さく振った。
「これしかないのに……お母様にいらない子だと思われたら……」
「お嬢、気にしすぎですよ。今回はたまたまかもしれません」
「でも、もし次もダメだったらっ……」
「お嬢をいらないと言うのなら、私が攫ってあげますよ」
ぎゅっと抱き締められて、陽炎の腕の中で蓮華は顔を上げた。
「……攫うって、家を出るの?」
「貴女が望むのなら、それでも構いません。いつでもこの家を捨てられると思ったら、気楽じゃありませんか?」
「だけど……陽炎は秋月家の……」
「そんなことは関係ありません。私はもう貴女のものですよ。お嬢の居る場所が、私の居場所です」
「そう……そうね……それって、すごく素敵」
蓮華の表情に僅かな明るさが戻ると、陽炎が不意に耳朶に口付けてきた。触れた唇が擽ったくてすぐさま耳を手で覆い隠した蓮華は、頬をほんのり赤らめる。
「急になにするのっ」
「いやぁ、お嬢が可愛いから、つい」
「ついって……」
蓮華は耳を押さえたままきょろきょろと廊下を見渡し、人がいないことを確認した。いくら陽炎と相思相愛の仲になったからと言って、こういう姿を人に見られるのは恥ずかしい。
況してや母の菊乃に見られたら、いったい何を言われることか。柊弥との結婚を控えているのだから、小言だけでは済まされないだろう。
「陽炎、本家ではいつも通りにしなきゃ」
「お母様には秘密ってことですか?」
「え……? まあ、そうよ……お母様には、絶対秘密にしなくちゃ……」
言葉を咀嚼するように自分でも口にしてみると、不思議な高揚感が胸をときめかせた。
母親に内緒で妖の陽炎と契約を交わし、許婚の柊弥とだってしたこともないような行為をしている。
普通であれば、いけないこと。
今までこんな風に母親を裏切ったことは、一度もなかった。
与えられるままに仕事をし、家の為だと結婚を受け入れた。すべて母が言ったから。母に逆らうことなんて、できなかったから。
「お母様に、秘密……」
「なんだかえっちな響きですね」
飄々と言ってのける陽炎を上目で睨んだあと、蓮華は堪えきれずくすくすと笑い出した。陽炎の言葉があまりに軽いので、まるで深刻さが感じられない。
どうしたって陽炎との関係を、母が認めてくれるわけがないのに。
「ねえ、陽炎。どうしたらお母様を驚かせることができるかしら? 結婚をやめると言ったら、きっと怒るわよね」
踊るように陽炎の手を引いて、蓮華は微笑んだ。いつも蓮華を叱る母の険しい顔を思い出すだけで身が竦みそうだったが、陽炎と一緒なら耐えられる。
母でさえも、この想いを断ち切ることなんてできやしないのだ。
「──お嬢、それはあまり難しいことではなさそうです」
陽炎の言葉に、蓮華は足を止めた。彼の漆黒の瞳を見つめ返すと、蠱惑的な笑みがそこにはあった。
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